【お詫びとご報告】「おまもり」という言葉の使用について

はじめまして、またご無沙汰しております。畑です。
本記事は私が制作・販売している政治的刺繍アクセサリー「おまもり」について、
「おまもり」という語彙の使用について、改めて私の宗教的スタンスを共有するとともに、
これまでそうした前提を発信しないまま、極めて特権的・無自覚的な「無宗教」スタンスに立脚して「おまもり」を発信してきてしまったことのお詫びのため、掲載するものです。

少し長い内容になりますが、「それの何がいけないの?」と(これまでの私と同じように)お考えになる方こそ、ぜひ、最後までお目通しいただければと思います。

はじめに

まずはじめに、X(旧Twitter)にて、
この私の無関心・無自覚をご指摘くださった方々に、改めて感謝を申し上げます。
私を含めた多くが、「宗教」という言葉そのものに旧弊的価値観や差別などを直接紐づけて使用したり、それを助長しかねない表現をしたりすることが常態化しているSNSの中で、
「信仰を持たずに「お守り」をいうものを頒布していることがショックだった」と直接ご指摘をいただいたことは、勝手ながら、ある意味で、私が反差別を信条として掲げていることに示してくださった信頼であったと受け取っております。
恥ずかしながら、そのようにご指摘をいただかなければ、「私はどのような宗教的立場から“おまもり”を扱っているのか」とわが身を見直すことはなかったと思います。

ご指摘をいただいた後、ご指摘くださった方の過去の発信や対話をさかのぼらせていただいたり、ご教示いただいた書籍・文献を読み大前提をインプットしたりと、私のできる範囲で学び・考えてまいりました。
(大前提として、日々被差別当事者としてこれまでも生活をし、傷ついてこられた方の、それゆえの言語化というものは、私のようなマジョリティが「学び・気づく」ためのものではありませんでした。私が咀嚼できる形でお伝えいただき、言語化を助けていただいたこと、それ自体に私の特権性があり、マジョリティ性があったことは間違いありません)

まず結論といたしまして、
今後、曖昧表記におけるベイティングを避けるため、私は自身の宗教的スタンスを販売ページに明記し、神道における御神璽入りの御守り(祈祷されたお神札の入った御守り。身に着けることで神の加護をいただくもの)ではないことを明記した上で、政治的刺繍アクセサリーを「おまもり」と名づけて販売することを続けたいと思っています。

理由を書く前に、「それの何が問題なのかわからない」と(少し前までの私と同様に)思われるであろう多くの方に向けて、ご指摘の背景を私なりに説明させていただければと思います。

当初のご指摘は私が別途友人と行っていた怪談企画に寄せていただいたものでした。
 ※こちらの経緯詳細は▶ツリーにまとめてあります。
「霊現象の実存を認識していないが、“こわい話”はあるよね」といったツイートについて、
「『信じていない』とはっきり明言した上で楽しむのは『消費』だと思う」と、日々宗教者としてのお立場から反差別を実践していらっしゃる方にご指摘いただきました。
その後、「信仰を持たずに『お守り』というものを頒布していたこともショックだった」とお伝えいただきました。

日本の「無宗教」とは何か

私の行っていたこうした言動の、どういう部分が問題であったのかについて考えるためには、

日本で暮らす人・日本語SNSの中でマジョリティになっている、日本特有の「無宗教」を認識する必要があると思います(以後「日本的無宗教」と呼びます)。以下、学びより抜粋します。引用の都合上、日本で育ち暮らしている人を大きく「日本人」と記載してしまうことをご容赦ください。

阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』によれば、
・日本人の宗教心を理解するには「自然宗教」と「創唱宗教」2つの概念が必要
・創唱宗教…教祖・教典・教団の三者によって成り立っている宗教
・自然宗教…いつだれによって始められたかわからない、自然発生的な宗教。教祖を持たない。
・初詣に行くこと、お盆には帰省することなども自然宗教的な行為だが、日本人には「無宗教」と理解されている
・「宗教を教義や布教といった目立つ部分と、習慣や風俗あるいは儀礼や儀式という目立たない部分に二分し、習慣や儀式をとりたてて宗教とはみなさないという風潮は、現在もなお続いている」
阿満自身も続けて書いていますが、実際には自然宗教的な営みを生活の中に根付かせつつ・自認としては「無宗教」である日本人は、創唱宗教に対する警戒心・嫌悪感を乱雑にまとめ、「宗教」全般に抱くようになっています。

私自身が書いた「霊現象の実存を認識したことはないが(=霊を信じているわけではないが)」というような前置きも、こうした認識に基づく「“宗教”を持って生活しているわけではないのですが…」というニュアンスが多分に含まれていました。

「日本的無宗教」は何が問題なのか

そうした日本的無宗教、あるいはそのような認識で暮らすことには、どのような問題があるのでしょうか。

1.(国家)神道非宗教論を正しく反省できなくなる

「天皇支配の正当化のために、天皇は日本をつくった神の子孫であるという論理を採用した維新政府にとって、天皇制を支えていくためには、どうしても天皇を絶対視する宗教、ないしは、宗教に近い「教化」手段が不可欠であった。……天皇を絶対視する神道を、「信教の自由」の見地からただちに国境化できないとすれば、その神道を宗教とはみなさなければよいのである。もし神道を宗教と見なさないということになれば、神道を国民に強制しても、「信教の自由」には一向に抵触しないということになる」

『日本人はなぜ無宗教なのか』、p091

私自身を振り返れば、うっすらと持っていた“宗教”への警戒心は、大日本帝国時代の国家神道に向けた「過去の過ちを繰り返すまい」という考えに起点を持っています。

しかし、大日本帝国はまさに「国家神道に基づく天皇崇拝は“信仰ではない”」と、今に通ずる“無宗教”的なアプローチで生活への浸透をはかっていたということになります。

私が漠然とした宗教嫌悪をもとに日本的無宗教を実践することは、宗教から距離を取るどころか、過去の過ちにそのまま絡めとられる危険性を孕んでいるといえます。

2.宗教差別を助長する

何よりも、宗教・宗教者に対する“雑”な差別がますます助長されていきます。

旧統一教会の問題以降(と私が認識しているだけで、被差別当事者として宗教差別に相対してきた方々にとっては耐え難い状況が連続して)、宗教・宗教者に対する“漠然とした宗教嫌悪”をもとにした差別的言動・行動はいっそう正当化され、反差別を掲げている人の間でも、「例外」として取りこぼされています。

私が(自身の言動をを含め)思い至る例としては、

・人権侵害を標榜するいわゆる“極右”を呼称して(但し書きなく)「宗教右派」とすること
(…宗教団体というバックグラウンドを持つことは、人権侵害を標榜していることと=で結ばれないはずですが、こうした言葉のニュアンスではそれらを=で結び付けているように見えます。指し示したい団体だけでなく、「宗教」全般へのマイナスイメージを流布しています)

・物理法則ではとらえられない事象を語る際の、「私は●●を信じているわけじゃないけど、……」といった枕詞
(「宗教の人」ではなく、私は理性的であるが…≒宗教者・信仰を持つ人は反理性的であり対話できないというほのめかしになってしまっています。ご指摘をいただいた、私自身の言動はこれに当てはまると思います)

「おまもり」という言葉を前提なく使うことはどのように「日本的無宗教」であったか

私自身の宗教的スタンスを明言せず、SNSなどでは「信仰を持たないが」「(創唱)宗教に属しているわけではないが」と発信しながらも「おまもり」という語彙を使用することには、下記の問題点があったと考えています。

・上記のように宗教差別を助長する可能性があった
・反差別を掲げつつ、宗教についてはその反差別の解像度を下げて扱っていた
・「おまもり」という一種の宗教的な概念をキーフレーズとして掲げつつ、実際にはそれをパッケージ的にのみ使用していた

特に、最後の点に関しては「宗教ベイティング」(クィアベイティングを元にした私の造語です)であったと考えています。
ご存じの方も多いかと思いますが、クィアベイティングとは、クィア(Queer)と釣りなどに使うエサを意味するベイト(bait)を組み合わせた言葉です。『登場人物がクィアであるかのような匂わせをすることで、クィアコミュニティの人々をはじめ、世間の人々をひきつけようとするマーケティング・ブランディング手法』を指します。

今回の場合は「おまもり」のように宗教的なバックグラウンドが共有されている言葉をパッケージに使用し、しかし販売者は実際には日本的無宗教を全面に出して振舞っているという点で、「宗教ベイティング」と言える行為になってしまっていたのではないかと自省します。

祈りをこめて「おまもり」と呼ぶ理由~私と「おまもり屋」の宗教的スタンス

ここまで、ご指摘いただいた背景にあった日本的無宗教の現状と問題を整理してきました。

その上で、冒頭に記載したように、
曖昧表記におけるベイティングを避けるため、私は自身の宗教的スタンスを販売ページに明記し、神道における御神璽入りの御守り(祈祷されたお神札の入った御守り。身に着けることで神の加護をいただくもの)ではないことを明記した上で、政治的刺繍アクセサリーを「おまもり」と名づけて販売することを続けたいと思っています。

私の宗教的スタンスとは、「この世界がより善くなりますように。私たちがより善く生き延びますように」という祈りです。これは私自身が生活で実践している信条でもありますが、実践できる・できないを問わず、こう祈ることそのもの、こうした祈りを共有することそのものが、私を含めこうした祈りを持つ人たちと、私の世界にもたらす影響を信じ・信仰しています。

私のつくる「おまもり」は、「私以外にも、より善く生きたいと思って暮らしている人がいるんだ」「私と同じ祈りを持つ人がいるんだ」と感じ・信じることが、その人の生存をまもる、という信仰によって作られ、送り出されています。

これは明確に自然宗教的な信仰のスタンスのひとつであり、私は私自身の祈りを刺繍にこめ、アクセサリーとして共有することを続けたいと思っています。

またもう一つの理由としては、

「(神道における)御守り」に該当しないために、私の自然宗教的な「おまもり」を、例えば「アクセサリー」「ブローチ」といった語彙に丸めることは、私の持つ自然宗教的なスピリチュアリティをいっそう日本的無宗教に近づけ、購入してくださった方々の認識の中の宗教観にも、そのような日本的無宗教を再流布することになりかねないと考えているためです。

畑のおまもり屋さんとして実際に行っていくこと

・販売ページに上記私の宗教的スタンスを明記し、私の信仰と「おまもり」について明確なご認識をいただいた上で購入いただけるようにします。

・合わせて、「おまもり」が神道における御神璽入りの御守り(祈祷されたお神札の入った御守り。身に着けることで神の加護をいただくもの)ではないことを明記します。(これは、神道的御守りを期待する方々を「おまもり」という語彙でひきつけて購買を促すベイティングを行わないためです)

・本記事のリンクを常に掲載し、日本的無宗教に関する認知を広げる努力を続けます。

末尾になりますが、改めて、今回のご指摘をくださった皆様に感謝を申し上げます。

こちらも再掲させていただきます。大前提として、日々被差別当事者としてこれまでも生活をし、傷ついてこられた方の、それゆえの言語化というものは、私のようなマジョリティが「学び・気づく」ためのものではありませんでした。私が咀嚼できる形でお伝えいただき、言語化を助けていただいたこと、それ自体に私の特権性があり、マジョリティ性があったことは間違いありません。

今回、おまもり屋として活動を続けるにあたり、このようにいったんの結論を出しておりますが、日本的無宗教を内在化している人間として、やはりおまもりという言葉を使用し続けることの差別的弊害が勝るという判断をするかもしれない、とも思っております。

宗教差別の当事者として考え続け、学び続け、発信し続けることを宣言し、いったんの結びとさせていただきます。

2023.10.15 畑

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