Wish You Were Here

※ベディヴィア&グースファット・ビル/レジスタンス前夜


"How I wish, how I wish you were here.
We're just two lost souls"


 男は夜の周縁にいた。張りつめ、張りつめ続け、緩むことを次第に忘れつつある思考は無数の針を吞みこんだようにざらついた苦痛で脳髄を満たし、身体のため必要な最低限の休息からすら彼を遠ざける。

 手の皺に血が染み込んでいる。ぼろ布で拭うと、その布に沁みた血がいっそう皮膚の上へ広がった。男本人の血ではない。板の上へ布を敷いただけの寝床へうつ伏せてこもった息を吐いている、男の同胞の血である。背中に深い傷を負った同胞の名はビル――サー・ウィリアム。ユーサー・ペンドラゴン王の忠臣として仕え、そしてそれゆえに追われる身となった。

「……、ベディヴィア」

 とうに意識を失ったとばかり思っていたビルが口を開いたので、男――ベディヴィアは水を飲ませてやった。固まりかけた血に汚れた口元を決して新鮮でない水が濡らす。したたった水を、先ほどまでビルに咥えさせていた布が吸った。ベディヴィアに、医術の心得はほとんどない。しかし、どうしても縫ってやらなければならなかった。長く深い傷だった。骨が断たれていないのは奇跡といってよかった。膿み始めていた肉をどうにか酒で清め、夜の女から無理をいって譲り受けた太く歪んだ針で縫い合わせた。ビルは何度も布に吐くような叫びを吸わせたが、決して体を跳ねさせはしなかった。ベディヴィアは肉に針を潜らせ、男の命を縫い留めながら、同時になめらかだった背が――騎士の傷なき背中が、取り返しのつかない形で失われていく全ての道程を見た。どこか少年のように無邪気なところのあるビルは、剣を交えて汗をかくたび人目を気にせず上衣を脱いで笑った。午後の日差しをうけ、汗に濡れた背中がほのかに光る情景をベディヴィアは思いだし、そして葬る。

 冬の入りの風が、強く吹いていた。ねぐらにしている物置小屋の壁などあってないようなものだ。魚の脂を使った、なまぐさい灯りがぐらぐらと揺れる。風が鳴るほかは静かだ。とても静かだった。ビルの細くひび割れた呼吸の音は、ともすれば風の音にまぎれて聞こえなくなった。口元に耳を押し当てて、それを確かに聞きとらなければならないという、身の内を焦がすような衝動にかられる。しかし、実行にうつすことはできそうになかった。耳を押し当て、ぬくもりを掻き抱き、そうして最も近づいたその場所で、万が一にもその息の音が消えてゆく静けさをまのあたりにしてしまえば、おそらく正気を保っていられないだろう。そう思った。もっとも「そう」なったとき、ベディヴィアひとり正気を保っている意義があるかどうかは別として。

 いま長らえているのは、ビルとベディヴィアの2人だけだった。ユーサー陛下の騎士として剣を取ったほかの者は、ヴォーティガン殿下の謀反の中で斃れた。ビルが、後に続きただ剣を取ろうとしたベディヴィアを止めたのだ。射手の目で、彼は見て取ったと言った。王と王妃の最後を。そして、舫綱を解かれた小舟が岸を離れていくのを。そうして、ベディヴィアとビルは逃げた。逃げ延びて身を隠し、ただすがるように情報を集めていた。

「――ベディヴィア」

「…何だ。今はとにかく、休め」

「王子は……」

――王子の御体は、見つかっていないそうだ。

 おまえはそんな傷を負ってまで、ただその情報を得ようとしたのか。ベディヴィアは、何もかけてやる言葉を見つけることができない。どんな言葉でもいい、かけてやらなければと思う。どんな言葉も、ただむなしいと思う。風の音が胸の底に響く。ただ手を伸ばし、皮脂と泥に汚れたビルの額を、布のなるべく汚れていない場所を探して拭いてやった。今度こそ意識を失ったのか、ビルは反応しなかった。苦痛にこけた頬。

 もしかすると、彼が見たという小舟は幻かもしれない、とベディヴィアは思う。体を焼く炎の中で、咎人は救いをみるという。繰り返し心に思い浮かべるうち、ビルは小舟を過去の中に見るようになったのかもしれなかった。戦の炎に焼かれる城から、まだほんの小さな王子をのせ、どこかここではない場所へ、両親の骸のない場所へ、滑るように去っていく小舟。やわらかな金髪を思い出す。父王の衣の裾をにぎり、ベディヴィアを見上げたあどけない瞳にかかる、小鳥の羽のような睫毛。幻影でもかまわないと、思う。自分たちには、他の何よりも、希望が必要だった。朝、目を覚まし、自分がまだ生きており、戒められてもいないことを認識した瞬間の安堵、そして同じだけの落胆から繰り返し立ち直り、朝食を口にするために。生き延びるために。幻こそが必要だ。

 静けさが、夜に取り残されたベディヴィアの首を絞める。

 ベディヴィアは軍の将だった。必ず、王より先に死ぬのだと思っていたし、そう決めてもいた。そうするに足る王を持ち、騎士の幸福をみな得ていた。しかし王を失ったあとも、王のいない朝と夜が巡るのだ。無様に長らえた己の腹は、王を失っても変わらずに減った。

 ユーサー王がここに、今ここにいてほしいと、子どものようなことを考えた。穏やかな声で、またお前はそんなに眉間に皺を寄せて、と笑ってほしかった。早く老けてしまうぞ、サー・ベディヴィア。貴殿には長生きしてもらわねば困る。

 指で触れた頬は、内側から燃えるように熱い。否、燃えているのだ。彼の体は内側から焼かれている。死の炎で。祈りもなく、焦げる喉をしめらせてやる清い水の一滴もないままに、友は灰になってしまうのだろうか。

 ふと、目の前で憔悴しきって眠る男を眺めながら、いっそう奇妙な考えが浮かんだ。

ビルが――ここにいてくれたら。

王を失い、そして今、ただひとり残った友すら失いかけ、ただひとり風の中で眠ることすらできない夜、この身を引きちぎられるような孤独と彷徨の夜に、ビルを失いつつあるこの夜に、そのビルこそが、居てほしい。肩を叩き、とうてい笑えないような酷い冗談を、冗談とも思えない淡々とした様子で口にしてほしい。途方もない楽観と、つめたい客観を、おなじほどに取り交ぜて示してほしい。

 そうすれば、次の朝にたどり着くことさえ、できるかもしれなかった。また何か物を喰う朝に、ふたりで。その朝には、何か見つかっているかもしれない。例えば、怒りが。あるいは、理由が。定め貫こうとした何もかもを失って、それでも物を喰い続けるための、何かを見出すことができるかもしれなかった。

 ベディヴィアは、ビルの声で、小舟の話を聞きたいと思った。表情をつくることすらできない、引き攣った頬に、生ぬるい水が――眼に濾された血が流れていくのを感じた。心の底から聞きたかった。

 やわらかな髪の、まっすぐなまなざしの少年を抱いて、朝を目指す小舟の話。

 今、この夜にこそ必要なものの話を。

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