人でなし

(ヴォーティガンとユーサー/かつて弟の一人語り)


 水の中で息をすることは、考えていたよりも、容易く、生々しく、そしてどうということもなかった。本当に人ではなくなったのだな、と思う。水の中で長く動き回ることはできるか、そのための代償はいかほどかと尋ねたヴォーティガンに対して、あの生き物たち(彼女らが3人連れなのか、はたまたひとつの生き物が三つ又に語っているのかは分からないが)の笑みといったら、それはそれは愉快そうだった。

 そのようなことでしたら、陛下はもうおできになりますとも。それだけの代償を頂いておりますから。

 陛下。

 己でつかみ得た呼び名のはずだが、ヴォーティガンは未だそれに慣れない。その言葉を聴くたびに、もうここにはいない兄の背を探してしまう。滑稽だ。自分の人生は、初めから、恐らく終わりまで、とても滑稽に進んでいくのだ。嗤わないのはおそらく兄だけだったが、その兄はヴォーティガンが殺したのでもういない。ヴォーティガンを嗤わないものは、もうこの世界のどこにもいない。

 入り江に体を沈めると、首の皮膚の柔らかいところがばっくりと口を開けた。そこから水を呑むと、肺腑に冷たい気が滑り込んでくるのがわかる。夕暮れには少し早い時刻、わずかに赤く傾いた太陽が差し込む、なめらかな青緑色の水だった。ヴォーティガンは潜る。

 その場所を探すのに、少しの苦労もいらないことは予想していた。藻草の絡みついた桟橋の土台が目印だ。そのただなかに抱きとめられるように、兄は、兄だった石は沈んでいった。その沈んでいくさまを、せり出した水中の岩棚を滑り落ち、やがて湖の底にたどり着くさまを、幾度思い描いたかわからない。湖の中に、生き物の姿は見当たらなかった。もとからいなかったのだろうか。あるいは、ヴォーティガンが呼び寄せたあの生き物に、食いつくされたのだろうか。どちらでもいいことではあったが。

 兄上は魚が好きだったな、とふと思い出した。白身の魚をバターで焼いて、香草をのせたのが好きだったな。魚が採れなくなったら兄上は悲しまれるかな、と考えて、兄はもう魚を食べないことを思い出した。滑稽だった。

 はて、予想通りの湖底に、兄だった石、もう魚を食べない石があった。

 滑らかな灰色の、何の変哲もない石であった。膝を抱え、天にうなじを晒した姿は、その光景を見ていたヴォーティガンにしか描けないだろう。兄の背中はいつだって美しかった。その背中があの忌まわしい剣を呑み込んだ時、自分の刃ではない刃を兄の背が抱きとめることに腹の底から憤激しながら、ヴォーティガンはどこかで納得したのだった。あまりにも、違和感のない姿だった。剣を抱いた兄の背中。抱いた端から石になっていく兄。そうなるべくして、それはそうなったのだと、人をやめたヴォーティガンには理解することができてしまった。そして当たり前のことではあるが、石になった兄は随分と人の姿ではなくなっていて、それにヴォーティガンは少しだけ安堵した。兄上も人ではなかったようだと、そんなところに、ひとつもないと思っていた共通点を見出した気がして。

 ヴォーティガンは水を掻いて兄の傍に寄った。生き物の気配はひとつたりともない、どこまでも静かな湖の底で、兄の肩に優しく腕をまわした。ぎゅっと力をこめて抱擁する。兄はもう石だから、抱き返してはこなかった。それでいい。

 これは、とても安心できた。話さない、笑わない、ぬくもりのない、魚を食べない、名前を呼ばない、誰のことも愛さず、誰のことも憎まない、石になった兄。人をやめたヴォーティガンだけが、兄を抱きしめることができる。口を開いても、泡のひとつも出てきはしない。

 あにうえ

 そう呼んだ時、冷たく無反応だった石の中心から、骨が震えるような何かの力を感じた。突き飛ばされたようにヴォーティガンは石から離れた。剣だ。あの剣が吠えているのだ。

 あにうえのからだのなかから。

 石になっても――兄が石になってしまった今でさえも、どうしても、自分と兄は隔てられるようにできているらしいとヴォーティガンは首から水を吐いて笑った。滑稽だ。そうあるべきだ。そうでなくては。

 兄上、待っていてくださいね。いつか必ず、あなたの中からその剣を引きずり出して、剣を打ち壊して、あなたをただの石に貶めてみせます。そうして、そうして――ずっと一緒に居ましょうね。たったふたりの兄弟なのだから。たったふたり、ひとをやめた兄と弟なのだから。

 兄の原型をとどめているようでは駄目なのだとヴォーティガンは理解した。剣の力を打ち壊し、兄の石を打ち砕き、ひとかけらの湖底の小石にして、はじめて、ヴォーティガンとユーサーはふたりきり静かに居られるのだ。兄の面影ひとつも、残そうとしたもののひとつも、この世にあってはならない。兄を思い描いたものを全て燃やし、兄を思い描く者たちを全て燃やして、小石ひとつを残そう。小さな石ひとつからでも、ヴォーティガンは兄を思い描くことができるだろう。話さない、笑わない、ぬくもりのない、魚を食べない、ヴォーティガンのことを愛さず、ヴォーティガンのことを憎まない、小さな小石になってこそ、ヴォーティガンだけの兄になるだろう。

 ヴォーティガンは湖底に身を横たえた。いつの間にか日は夕暮れを通り過ぎ、稜線の向こうへ沈んでいったようだった。どこまでも滑らかな、青緑色の水底で、まだ腕に抱かれてはくれない、兄の声なき背中に、弟は静かに耳を傾けた。

 水を大きく呑み込む。人の身であれば、肺腑を満たした冷たい湖水が、瞬く間に命を奪ったはずだ。しかし、水は、ただ身の内に滑り込み、生臭くなって出てゆくだけだった。そうなるべくして、そうなったのだ。ヴォーティガン・ペンドラゴンは人をやめたのだから。

肺腑を氷のような、石のような理解が巡る。

 ――もう、水の中で死ぬことすら、できない。兄と同じ場所に、もはや、沈むことができない。

 夜に呑まれた湖の底で、人をやめて王になった生き物は、死ぬこともなく、息をすることもなく、ただ聞こえるはずのない声をいつまでも探していた。

0コメント

  • 1000 / 1000