お砂糖、スパイス、素敵な嘘をいっぱい

 嘘をつくのが仕事だ。だから、そのことについて、イリヤ・クリヤキンが誰かに何か物言うことなどできないし、したいと思ったこともないはずだった。それは、ソロの経歴を薄暗い映写室で見せられたときもそうだった。どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか。あるいは、どこまでが見抜かれることが想定された嘘で、どこまでがそうでないのか、ほとんど習慣的に選り分けながら、そういう生き方についてどうこう思う資格など、いつも通りイリヤにはなかったはずだった。

 それなのに、あの西独の湖畔のカフェで、どうしてあんなにも許せないと思ったのか、実はイリヤ自身にもわからない。同業者の男が嘘をつく。虚飾まみれのキャラクターを被って、そのくせこちらの最も触れられたくない本当のことを抉り出す。人間であれば嫌悪すべきで、机のひとつふたつひっくり返してやむなしだが、イリヤは人間である前にスパイであった。キャラクターを被り、人の触れられたくない本当を抉り出すのが仕事なのだ。何を、あんなにも腹を立てることがあったのだろう、とふとした瞬間、今でもイリヤは不思議に思うことがある。あの時、その怒りは、ひどく自然な人間としての感情は、長らく自分で閉じていた蓋の重い井戸の底から、気泡のように立ちのぼってきたのだった。それはイリヤの内面に痛みに似た刺激をもたらした。ソロの言動、わかりやすくこちらを挑発した言葉選びより何より、その弾けるように鮮烈な人間としての痛みにこそ、耐えられなかったのかもしれないと思う。



 ある年、人死にの似合わない欧州の田舎町をソロと共に訪れたのは、人が死んだからだった。アンクルと一部連携して動いていた、他国の諜報員が死んだ。とはいえ、それは失敗によるものではなく、病死であった。市囲に溶け込んで日常生活を送りながら指令を待つタイプの諜報員とは一度だけ接触したことがあった。土曜日の朝のカフェで、ボウル一杯のカフェラテをうまそうに飲む、ごく普通の老人に見えた。彼が所持したままアンクルに引き渡さずじまいになった資料を引き取りに、彼が暮らしていたアパルトメントを訪れたのは、次のミッションに向かう際の「ついで」だった。

 暗い赤の外壁、緑色に塗られた窓枠の小さな集合住宅には、エントランスの前に小さな石の階段があった。壁にもたせかけた子供用の自転車。金色の細い髪をした少年がつまらなそうに座り込んでいる。おじさんたち誰、といわんばかりに見上げる青い瞳をにこやかに覗きこみ、ソロは手間が省けたといわんばかりに尋ねる。やあ、こんにちは。ここにヨハンという人が住んでいたと聞いたんだけど、君、知っているかな。ヨハンのじいちゃんの知り合いなの?おや、やっぱりここで合っているんだね!よかったよかった、初めて来る街で迷ってしまって。ねえおじさん、つい前の前の週だけどさ、ヨハンのじいちゃん、死んじゃったんだよ。

 その時のソロの見開かれた目と、力を失った肩、そうかいと呟いた声の力のなさ、それを嘘だと思う人間がいったいどこにいるだろうか。完璧だった。

 おじさん、ヨハンじいちゃんの知り合いなの。そうなんだ、ヨハンさんが教師をやっていたときの教え子でね、ほらこいつもそうなんだよ、一緒の教室で授業を受けていたんだ、久々に旅行でもと近くまで来たんで、ぜひお会いしたかったんだが、そうか、亡くなったのか……残念だ。

 イリヤは、あの湖畔でのカフェでの経験と、限りなく近い感覚を得ていた。説明のつかない怖気と、それと同僚の幻覚だった。こいつの言っている全ての虚言、就く必要のあるとも思えない嘘まで混じった嘘と、「それは本当のことなのではないか」とイリヤにすら思わせる「本当」の匂いをにおわせる、その二つを息をするように同居させるソロ。同業者としての空恐ろしさを噛みしめる傍ら、イリヤの脳裏にはよぎっているのだ。見たこともない、あどけないナポレオン・ソロと自分が、小さな明るい教室で、まだ壮年のヨハンが白墨で描くあれこれを、ノートに移し書いている姿を。



 後日、そんな話を、話すでもなくギャビーにしたある夜、細い手首でグラスを支えた彼女はしばらくの間黙っていた。酒が回って眠くなったのかと、イリヤが彼女の手からグラスを取り上げなくてはいけないかと動き出したとき、酔った彼女の常にない静かな声がした。


 おまつりで飲むコーラみたいよね、あとはポップコーン、コットンキャンディ、そんなところ。

 食べる前、どんなにか美味しいんだろうと思って、それ以外目に入らないっていうくらいほしくなるじゃない。お願い、これさえあれば今日は幸せになれる、私は幸せになれるって思わずにはいられない。口にしたら、ぱちぱち弾けて、すぐにどこかに行ってしまう。

 何からできてる、なんて知ったらがっかりするようなものばかりね、きっと。口に入れてみて、がっかりしている私に、周りのみんなは言うの。それ見な、そんなにいいものじゃなかったろう、って言うの。

 でも、それってそんなに大切なことかな。そのものはフェイクでも、それさえあれば幸せになれる、そう信じられることは本当だって、今は私、そう思う。



 ナポレオン・ソロと道を分かって長い。今ではどこで何をしているやら、生きているのか死んでいるのか、ましてや彼の本当のこと、彼がどこからきてどこへ行ったのか、イリヤが知ることはこの先ずっとないだろう。

 それでも、街を巡業する遊園地やシアターからふとポップコーンの香りがするとき、ストローでコーラを嬉しそうにのむ人々とすれ違うとき、イリヤの記憶の中のたくさんの嘘と、その中でもひときわ鮮やかなナポレオン・ソロの嘘が気泡のように立ち上ってくる。

 これからも、イリヤは無数の嘘をつき、無数の嘘にまみれて死ぬだろう。そこにきっと意味は残らない。仕事としての嘘つきが、仕事をしながら死ぬだけだろう。ただその軒先に、現れる男がいるような気もした。知り合いなの、おじさん、そんなふうに近所の子どもに聞かれ、年甲斐もなく片目をつむって嘘を重ねる男。そうさ、俺たち、昔は一緒に世界を救った仲でね。息をするように、途方もなくおぞましく、途方もなく優しい嘘を。



(20200428 リクエスト作品 ナポレオン・ソロ/コーラでSS)

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