埋み火 (コール&ハンゾウ/MK)

腹と頬が冬の日の焚き火にかざしたようにあたたかく、心地よい温もりに包まれてコールは目醒めた。今が朝か夜か、どういう状況かは蜃気楼のようにぼやけて定かでなかったが、不思議とひどく安心しきっていた。

ごく穏やかな振動が、体重を預けた広い背中から伝わる。
体から力を抜いた状態で安心しきって目を閉じることなど、大人になってからというものとんとないことだった。いや、どんな人にも頼り切ることのできなかった子ども時代を思い出せば、コールの人生全体を振り返ってもそんな経験はないのかもしれなかった。家族ができてからの眠りは安らかだったが、コールにとって彼女らはやはり守るべき人たちであり、意識の上で自分の身を預け切るということはなかった。もちろん、守らせてくれるということはこの上ない喜びだったのだが。(最も、異界の怪物に斧を振りかぶる彼の妻を筆頭に、コールの家族は甘んじて守られるばかりの人たちではないのだけれど)

今、コールは力を抜き切って、温かく広い背中に全体重を預けていた。足の下を通って腹の前で組まれた力強い腕が、決して軽くはないコールの自重をがっしりと支え、急がない足取りは軽々と進む。
まだぼんやりとした思考のまま、あまりにも心地よい安心感のもとを辿ってコールは頬を擦り寄せた。温もりのもとは枯葉に似たふくよかな森の匂いがした。その葉の下には鉄錆がひそんでいるようだったが、それは闘いに身を置き続けるコールにとっては命の匂い、交わし合う拳の匂いでもある。

「……<起きたか?>」

低い、穏やかな声が直接体に振動として伝わる。

(……………!?)

それによって、コールは初めて状況を理解し、心底動揺した。なななななんでどういうことなんでこうなったなんかいい匂いするいやそういうことではなく。

ハンゾウ・ハサシにおぶわれている。
動揺のあまりコールはとっさに寝たふりをした。正気の行いではなかったが、起きたらなぜか伝説の忍者の背中にいたという状況下では誰しも判断力を失うのではないだろうか。
最近乞うてコールが教わっている日本の言葉で振り向いたハンゾウは、応えがないことにふむ、と頷くと、コールの体を軽くゆすりあげて背負い直し、ぽくぽくとまた歩きはじめた。
あたりは一面燃えるような夕焼けにつつまれている。ハンゾウの踏みしめる砂の音に、コールは徐々に今日のできごとを思い出しつつあった。


マークを持った戦士を探しつつも、魔界の襲撃に備えてコールたちは鍛錬の日々を送っている。紆余曲折ありつつ(主には雷神の押し切りで)冥界から蘇ったスコーピオンことハサシ・ハンゾウがその鍛錬の師となってしばらく経つ。
しかし、ハンゾウ自身が考える以上に、寺院の修道僧たちの「壁画の戦士」への憧れは強く、彼が修練場に姿を現すごとに小さな熱狂の渦が起こった。彼はそれを強く拒絶することはなかったが、どう受け止めてよいかわからない様子で立ち尽くす姿がそこここで見られた。見かねたコールたちから、指導の場所を寺院から少し離れた砂漠の岩陰に定めたのだった。(これに対して、勤勉な寺院の僧たちから、尊き印を持つ戦士のみがハンゾウの教えを受けることに対する丁重な抗議ーー要はずるいずるいという不満ーーが寄せられたことは言うまでもない)
今日とてハンゾウの指南を受けていたコールだったが、一日の疲労が溜まった足元が砂にずるりと滑り、受け損なったハンゾウの拳が鳩尾に深く埋まりーー記憶は今に至るまで飛んでいる。
雷神の加護を安易に使わない師は、情けなくも意識を失って昏倒した弟子を担いで寺院まで戻ることを選択したのだろう。

砂漠すべてを焼き滅ぼすような夕日の影から、砂漠の凍てつく夜の気配が忍び寄る。しかし体を預けた背中はあたたかく広かった。その身が此の世のものではないことなど、信じられないほどに。

……………………………………………

青年の足元が砂にとられたことを視認し拳を緩めたのが一拍遅れ、したたかに鳩尾をとらえた重みそのままにコールが呻いて崩れ落ちた。む、と構えを解き、しばらく見守ったが起きる気配はない。脈と息をとり、深い疵を負わせていないことを確かめてから、その体を背に担ぎ上げるまでにさしたる葛藤はなかった。
自分が現れると何かと騒ぎになる寺院へ、雷神の轟きと共に帰還することの面映さもあったが、なによりもコールの目元に深い隈があらわれていることを目に止めたからだった。
この気性の優しい青年は、疲れを周囲に見せることがない。元から高給取りというわけではなかったようだが、自らに現れた印の意味を知ったのちも、その状況が変わっているわけではないようだった。妻と子の糊口を凌ぎながら、時間を縫って鍛え、時には戦士を探して異国を訪れる。苦にもならない様子で笑顔を絶やさず、ハンゾウに教えを乞うてすら来るが、ひとつきりのその体は澱を溜め込みはじめているように見えた。砂漠で鋼の糸を渡り合うような技のやり取りを交わせばその陰りは一層明らかだった。
砂に頭を預けてぐったりと目をつむった男の顔を見て、せめて寺院に帰るまでの短い道のりを眠らせてやろうと思ったのは、冥界の炎の中で焼き滅ぼされたはずの人間性ーー親心に近いものだと指摘されれば、否定はできまいとハンゾウは思う。
家族を持ち、あの氷の男にすら太刀を浴びせたひとりの戦士であるコールを、やはりまだどこかに幼さを残す青年として見てしまうのも、己の中にあるそういった心の一欠片のなせる業なのだろうと。コールに聞かせれば不快になるに違いなく、そもそも語る機会もないことではあったが。

(思えば十兵衛もいたみを隠す子であったな)

まだ小さくも、兄として振る舞おうと精一杯であった息子を思い出す。目にいっぱいに憤りや恐れの涙をためて、しかしそれをこぼすまいときりきり歯を食いしばり、かわをみてきますと駆け去る小さな背中。
夏の森の匂いを伴って鮮明にそれを思い出すごと、冥界では内臓を切り刻まれるような苦しみが噴き出したものだった。妻と息子の、凍てついた死に顔と共に思い出す優しい記憶は、すなわち己の無力の証明として繰り返し肺腑を灼いた。
しかし、冥界の炎にも似た、轟々と燃える夕焼けの中で、慣れ親しんだ後悔の苦しみは、少し火勢を緩めているようだった。

背中に負った青年の身体は、鍛錬の熱も冷めやらずに熱い。しなやかな筋肉に覆われた体の上背は己よりも背高く、担ぎあげれば頼もしい重みを返す。見た目よりも柔らかな髪が首に触れる。健やかな息が肩にかかり、波のように温かく寄せては着物をほのかに湿らせる。
かたちあるもの、命あるものの優しい重みが、ハンゾウをしばし苦しみから遠ざけていた。代わりに、コールの息遣いと共に、燃えるような、郷愁ともいうべき感情が去来した。
十兵衛を負ぶってやったことはあっただろうか。あの子は早く大人の男になりたがっていたから、子ども扱いを嫌がった。ほんとうに小さい頃を除けば、負ぶってやることは少なかったかもしれない。最期ーーせめて氷を融かして、この腕に抱いてやりたかった。さぞ、寒かっただろうに。

数百年経っても色褪せない血が思い出から噴き出そうになったとき、背中の体温が身じろいだ。筋肉に力がこもり、重心が移る。
ーー目覚めたか。

「………起きたか?」

背中に問いかけるが、コールからの応えはなかった。まだ状況を掴みきれていないのか、僅かに強ばった体は、無言のまま、そっとハンゾウの背に重みを預けなおした。
ハンゾウは、僅かに瞠目した。
ふむ。
青年に、気づいたことを気づかれぬよう、負ぶった体を揺すり直すと、変わらぬふうを装って歩みを進める。コールは目覚めたまま、静かに背中で揺られているようだった。
ふつふつと、腹の底から小さな泡のような何かがーーあたたかく、心地よく、僅かにこそばゆい何かが湧き上がってくる感覚に、ハンゾウは大いに戸惑った。



やがて、砂漠に夜のとばりが降り、二人は寺院に帰り着く。完全に言い出すときを見失ったコールは結局ずっと狸寝入りを続けていたのだったが、時折、恐ろしいほど他人の機微を解さないリュウカンにまっすぐ覚醒を指摘され、釜茹でしてもこうはなるまいというほど赤面することになる。加えて、ハンゾウは、そのうつむいた頭にぽんと手を置いて髪をかき回すことで、あわや冥界ばりの火を噴くかという瀬戸際まで弟子をおいつめてしまうことになる。
そのとき、雷神すら見逃してしまうほどの刹那、冥界の蠍の口元に浮かんだ綻びは、どんな壁画にも残らず、ただ、かつてひとりきりだった青年の記憶だけに焼きついて、いつまでも消えない灯火となるのだった。
(20210720)
(Photo by Daniele Colucci)
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