翅やすめ

(竈門兄妹のなんということもない夜。原作1巻以降)


 宿に着いたのは、日がとっぷりと暮れてからだった。先だっての戦いで右足の筋をひどく痛めた炭治郎は、歩むとき腰の刀を引きずらないのがやっとの風体で、山越えに普段の何倍もの時がかかってしまったのだ。長男だから大丈夫、長男だから我慢できる。お守りのようにしていつも抱きかかえてきた言葉は、一足ごとに脳天まで突き抜ける鋭い痛みの中で、ほんの少し鮮やかさを欠いてしまっていた。

 飯時を過ぎて這うようにやってきた小汚い客に、宿のものは当然いい顔をしてくれなかったが、小さくとも休める部屋を与えてくれたのだから幸運に思わなくてはならない。北側の、物置のすぐ傍の汚れた小部屋をあてがわれた炭治郎は、それでもほっとして礼を言った。

 背負った箱を降ろすと、背の汗がすうっと冷える。

「禰豆子、ねずこ。出ておいで」

 小さく声をかけると、箱の扉がぱこんと内側から開いて、禰豆子が――妹が、ぼんやりとした表情のまま這い出てきた。

「今日は出してやるのが遅くなって、ごめんなあ。兄ちゃん、今日歩くの遅くってな」

 禰豆子がどこまで炭治郎の言うことをわかってくれているのか、正直なところよくはわからない。戦いの時、言ったことを禰豆子はやってくれるから、きっと言葉は全部わかっているのだろうと思う日もある。しかし、家族と暮らしていたころの、くるくると変わる表情がすっかり削げ落ち、いつもぼうっと虚空を見つめている瞳が際立つような日――今日のような日は、果たして、禰豆子はどこまで心を残しているんだろうかと、足元が砂になっていくような、哀しい気持ちになるのだった。

 箱に入っているときの禰豆子はとても小さな体だから、箱から出て本当の大きさに戻ったりすると、もう着物はぐずぐずに着崩れてしまっている。兄の自分のほかに誰が見るでもないけれど、もう今日はふたりで横になるだけなのだけれど、いつも炭治郎は禰豆子の着物を直してやる。

 みんなで暮らしていたときは、禰豆子が、弟妹たちみんなの着物を整えてやっていた。竹雄や茂などは基本いつでも裾をからげて走り回っていたので。

(ちょっと、今直したばっかりでしょ!)

 山菜の籠を小脇に抱えてぷりぷりと怒る禰豆子の明るい声が、ふいに聞こえたような気がした。

 炭治郎はうつむいて、禰豆子の身八ツ口に手を差し込み、とんとんと着物を引いて襟元を整えてやった。今朝履かせたきり、砂に汚れていない脚絆の紐をほどく。禰豆子はぐらぐらと動かされるままに揺れて、ぼんやりと炭治郎の顔を見ていた。妹の肌は白く、ひんやりとして美しい。

 もう炭治郎も禰豆子も、隣に布団を並べては眠らない年頃だった。家族だけれど、こうして着物を着換えたり整えたりする姿を、禰豆子もあまり見せたりしなくなっていたと思う。本当は、本当なら、こうやって炭治郎が着物を整えたり、肌に触れたりしたら、禰豆子はものすごく恥ずかしがっただろう。もう、やめてよお兄ちゃん、ひとりでできるよ、そういってじたばたと暴れただろう。

 けれど、禰豆子がそうして恥ずかしがることはない。

 炭治郎も、妹の肌を見て、ただ胸の奥に風が吹きすさぶような哀れさを感じることはあっても、恥じらいを覚えたりはしなかった。禰豆子は今、小さく、小さく、なっている。それは箱に入って日のもとを動くために縮めた身の丈のことだけではなくって、心についてもそうだ。

 小さく小さくなってしまった、炭治郎の、たったひとり残った家族。

 脚絆を外してあらわになった白いふくらはぎが寒そうで、炭治郎は羽織をかけてやった。と、禰豆子は飽きてしまったのか、くてんと横になって頭を炭治郎の膝にすりよせる。

「ああ、駄目だったら、禰豆子。兄ちゃんの足、汚れてるから、ああ」

 慌てて頭を転がしてやろうとすると、とたんに膨れて、がっしりとひざにしがみついて離さない。きれいな射干玉の黒髪が、みるまに炭治郎の脚にくっついた泥土でよごれてしまった。

 フンフンとなぜか満足げにしている禰豆子の頭をぽんぽんとしてため息をついた炭治郎は、禰豆子が膝にひっついたり、腹にひっついたり、背中にひっついたりしてくるのをとりあえず好きにさせてやることにした。そうしながら、自分の身なりから簡単に泥土を汚れた大風呂敷に落とす。鬼殺隊の隊服は水や汚れをはじくようにできているので、着物で旅をしているころよりはこれでもずっと身ぎれいにはなった。

「禰豆子も隊服をもらえないかなあ。すごく着心地がいいし、普通の鬼の爪なら防いでくれるもの」

膝のあたりでころころとしている妹に話しかけてみると、ふわふわとした目でこちらを見返すばかりだ。

「そりゃ、俺だってきれいな着物を着せてやりたいけれど、禰豆子は戦うしな。これからもきっと旅が続くしな。それに、蝶屋敷の胡蝶さんを覚えてるか?隊服の上に、綺麗な蝶の羽模様の羽織をしてた。禰豆子もあんなふうにしたらいいんじゃないか」

禰豆子は相変わらず機嫌よくフンフンと鼻を鳴らしているが、羽織という言葉を聞くと、炭治郎が脱ぎ捨てた市松模様の羽織をたぐりよせて、頬にあてがった。

「ええ?兄ちゃんの羽織がいいのか?」

 フンフン。

「うーん、汚いぞ?それに、だいぶぼろぼろだし...もっと綺麗な反物で仕立ててもらった方が」

 ムー。ムー......。

 わかりやすくとても不機嫌になってしまった妹をなだめようと頑張りながら、炭治郎は一日の終わりにいつもそうするように、木の櫛で禰豆子の髪を梳いてやることにした。いつでも湯を使えるわけではない、旅から旅への生活。しっかりと櫛で梳いてやれば、細かな砂やほこりも、落としてやることができる。母がいつもそうしてやっていたように、今度は炭治郎がそうしてやるのだ。禰豆子の髪はとても綺麗だ。町で見かけるどんな美しい女の人にも負けていない。

 右足は相変わらず、熱を持ってひどく痛む。今夜は骨から熱が出て、眠れないかもしれない。痛みの種類がわかるようになった炭治郎は、ひとふさずつ禰豆子の髪を梳いてやりながら、それでも安らいだ気持ちでいた。

 だって、今日も夜までたどり着いた。禰豆子を箱から出してやれる夜、髪を梳いて、話をしながら身を清める夜に。きっと、こうやって二人手をつないで、歩いて行けるはずだ。いつか来る、禰豆子の朝まで。母譲りの綺麗な黒髪を、もう一度あたたかい日の光が撫でる朝まで。

 ふいに、滑らかな禰豆子の手のひらが、炭治郎の右手を包み込んだ。目を合わせると、まなじりがふっくらと盛り上がった。

 口元が覆われていても、触れた手のひらが悲しいほどに冷たくとも、それは変わらぬ、禰豆子の笑顔だった。

 炭治郎の家族の笑顔だった。

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