The world is still not enough

1

 タラップを踏んだわたしの鼻を、濃く甘い海の風が撫でていった。イタリアとは違うにおいだ。海のにおいと、人のにおい、汗が混じる香水、露店の果実、ローズマリー、焼いた肉、香辛料、甘い油のにおい。

 思わず小鼻をひくつかせたのに気がついたのか、差し伸べた手を軽く振ってソロが小さく笑った。

「東(オリエント)へようこそ、お嬢さん」

「その呼び方、やめてくれる」

 思ったよりも頑なな声が出てしまって、内心少し焦った。思わぬなりゆきで――同僚、そう、同僚ということになるのだろう、同じ仕事をすることになった男は、まったく気にしたふうもなく、眉をひょいとあげてみせる。この人には、わたしが今日になってもまだ感じている戸惑いなんて、全くないのだろうか。タラップから、次々と旅行者がおりてゆく。ついこの間まで見たこともなかった、とんでもなく上等なコートを着た美しい女性たちが、ふわり、ふわりと、先に降りた男性の差し伸べる腕に体重を預けてゆく姿は、めずらしい蝶に少し似ていた。一瞬、自分もそうするべきなのかと思ったけれど、逆に転びそうな気がして、そして言葉にすることができない別のためらいによって、わたしはわたしの定めた重心を崩さず、自分の足でタラップを降りた。熱い風に煽られて、桃色がかったパープルのスカートの、薄い布がふくらむ。

「……それに、東って言われると変な感じ」

「まあ君も東から来たわけだしね」

 結局方角なんて、どこから見るかによるってことだな。そんな風にうそぶいて、ごく自然な仕草でわたしの分までトランクを持ちあげたソロに促されるまま、わたしは歩きだす。

 わたしが暮らし、とんでもない形で飛び出した馴染みぶかい「東」とは全く異なる、しかしやはり「東」の国――トルコ、イスタンブール。わたしたちは今、そのシルケジ駅に降り立った。

「ようこそUNCLEへ!」

 他国のエージェントである彼らはまだ仕方ないにしても、「私のエージェント」などとわたしのことを呼びさえしながら全く情報共有をしてくれなかった事実などなかったかのように、ウェーバリーはその組織――なのだろう、多分――の名を口にした。やたらと軽快で親しみやすい語感ではあるけれど、わたしたち(特にソロ)は、”アンクル”という言葉から鮮明に、とある最低の人間を連想してしまうわけで、当惑とそれを上回る不審の表情はただひたすらに深まるばかりだった。なにがようこそだ、この英国狸。

 ああ、だけど。横で口を微妙に開けたまま話を聞いている二人の男からすれば、わたしもイギリスの狸ということに、なるんだな。そう思って、わたしは気がつかれないようにゆっくりと視線を伏せた。ソロは、ウェーバリーの出方を伺うように、イリヤはむっつりと腕を組んで目を光らせ。三者三様の黙り込み方をしているわたしたちには心底おかまいなく、ウェーバリーは上機嫌で組織の長ったらしい正式名称をすらすらと述べてみせている。

「――と、まあ、意味ありげな名前をつけているが、君たちによりわかりやすいようにこの手段の目的を話すとするならば、『世界を救う』というところかなあ」

 控えめにいって、うさんくささをインチキくささで煮詰めてクイーンズイングリッシュで濾した感じ。あれっ何だか信用してない顔だね、なんてしゃあしゃあと言うから余計に。

「『誰の世界』を救うんですかね」

「もちろん、僕ら皆のさ」

 皮肉のたっぷりまぶされたソロの言葉に眉ひとつ動かさず、滑らかにウェーバリーが言いきる。

「ヴィンチグエラの一件はいわば試金石だった。もう一九六〇年代なんだから、国家などという古臭い枠組みの上を飛び越して起こる厄介事はいくらでもある。それに対処するこちらも、柔軟性をもたなくてはね。ソロくんの上司は愚痴っぽいから溢してたかもしれないけど、今回君たちを組ませるの、本当に本当に面倒くさかったんだよ。もっとも君たちそんな苦労はおかまいなしに初日から殺し合いかけたらしいけれど」

 寛容に微笑んでルームサービスの紅茶をひとくち含み、ああ酷いねと付け加える。それ、お茶についてなのかしら。イリヤが指で二の腕を一度、叩くのが見えた。

「何か事が起こるたびに今回のような手間をかけて人員を選び、殺しあわないように言い含めて、実際殺しあわずに成果をあげるかどうかの素敵なギャンブルを楽しむ余裕は、私の国にも、君たちの国にもないんだな。それで、UNCLEを立ち上げた。もちろん国元は了解済みだ。つまりこれは、間接的に国家からの指令でもあるというわけだ」

 最後の一言は明らかにイリヤに向けられていたし、それを彼もわかったようだった。そう言われてしまって、反論するように彼は生きていない。反面、せめて態度に出さなくてはやっていられないとばかりに、ソロが聞こえよがしのため息をつく。

「差し当たって、トルコのほうの人たちのさ、資金源が問題なんだよね」

 それぞれのリアクションを意に介さず、すっと本題に入ったウェーバリーは、そんなふうに話を切り出した。

「トルコを拠点にし、国内は云うまでもなく、国際市場にまで新しいタイプの薬が流通している。依存性は申し分なし。系統としては”ハイ”だが、我々としては、恐らく科学的に合成された薬物とみているよ。嗜好品に対する人間の情熱というのは厄介なものだね」

 下げた眦に、妙に実感がこもっている。

「元を辿るのにはそれなりに苦労したが、どうもイスタンブールが根本のようだ。そして、開発して売りさばいている組織、どうも普段から『嗜好品』を扱っているビジネスマンというわけではないのが、ひと段階やっかいなところなんだ。トルコの情勢については?」

「六十年のクーデターから前政権者が処刑されて、小康状態にあるのでは? 安定とまではいかないでしょうが」

「おおむね正解だ。何をもって小康とするのかは人によるだろうが。さて、クーデターは経済に対する評価が大きな要因だったが、ほかにもいくつか原因とされるものはある。クリヤキンには心当たりがあるんじゃないかな」

「……旧政権は親ソ政策を進めようとしていた」

「その通り。そして、親イスラーム化もだ。国父殿を神のように崇めている連中にとっては、冒涜もいいところだっただろう。クーデターが成った今となっては、世俗化の方針は守られたわけだけども。手段が手段だっただけに、未だコネクションをつなぎ合う不満分子が水面下で組織化したのも無理はない。ここまでなら、内側、あるいは君たち『各自』のお仕事の範疇なんだけど」

 さらさらとそこまで話してから一旦言葉を切り、

「問題は、彼らがよりによってナチの科学者を抱き込んで素敵なお薬の開発に手を出し、政治的資金とやらの基盤としたところだ。目的のためなら大戦の遺恨は気にしないことにしたらしい。まったく困ったもんだ。東西のどちらにとっても今は微妙な時期だ。下手な賭けはしたくない。東の方からしてみればトルコを抱き込める可能性は魅力的だっただろうが、どうもその組織とやら、理性を手放しかけている傾向にあると報告が上がっている。手を組む相手としては、リスクが大きすぎる。薬にまで手を出しているとなれば、尚更のことだ。つまり、私たちの任務は、ソロくんのいう『小康状態』を保つべく、おいたの過ぎそうな反政府組織にお鎮まり願うこと」

 片目をぱちんとつぶる動作が、まあ何ともうさんくさい。簡単に言ってくれるものだ。

「諸君、精々よく働いてくれたまえよ」

 ほがらかに言い放って、ウェーバリーはすっかり冷めた紅茶のカップを手に取り、ティーポットのふたを持ちあげると、勢いよく中にお茶を戻した。

 シルケジ駅の高い天井から柔らかい午後の日差しが入り、人気の少ない駅舎の中の埃を透かしていた。ヨーロッパとイスタンブールを結ぶ列車――いわゆるオリエント・エクスプレスの終着駅となるシルケジの駅は、イスタンブールのヨーロッパ・サイドに位置している。

「駅舎としては、アジア側のものがとびきり美しい。時間があったら観に行きたいね」

と言いながらも、ソロは満足げに天窓の色ガラスを見上げていた。生成りの麻のシャツに、濃いグレーのトラウザーズ。意図的に少し崩した黒髪と、すっきりした襟足。――わたしたちは建築学を学ぶ兄と、その妹だ。また「建築」なの、と思わずこぼすと、カメラを持ってうろうろしていても理由がつくからなと説明してみせた。ただし「建築」という言葉を使うなら、相手からもそういう疑いを持たれる可能性が上がるということでもある、と穏やかに付け加えながら。今回に限って言えば、多少怪しまれるリスクをとっても、ソロには大学院生というカヴァーが好都合だった。ディプロマというには流石に無理があるが、マスターコースならば若づくりの必要もない。何より、アカデミアで海外情勢や政治思想に関心をもち、しかし世間慣れはしていない、そういう人物になる必要があったのだ。

 うん、まだ時間があるな。腕時計で確かめて、ソロは少したくらみ顔になる。

 別のルートからイスタンブールに入ることになったイリヤとは、この夕方に落ち合う手はずになっていた。定められた時間に定められた場所で。確かに時間には余裕があったけど、ソロの無駄に生き生きとした顔を見ていると正直いやな予感がする。粛々と定刻を待つ気なんか全くなさそうだ。そもそも、「スパイなんてさっさと辞めたいね」などと公言してはばからない人ではあるのだけど。

「そんなに鼻の頭にしわを寄せるなよ。俺たちは今、憧れのイスタンブールに着いたばかりですっかり浮かれた観光客なんだから」

 しゃあしゃあと言ってみせるソロは、シャツのすそをさらり翻し、いたずらに誘うような目をした。なるほど、こうやって女の人を口説くわけね……。わたしは場違いに感動した。普段のソロのテイストとはちがう服装でも、そんなことは関係ないのだろう。つまりソロの魅力というのは、自分の表情が相手にどんな効果を与えるか、知り尽くしているところにあるわけだ。

 駅舎から出ると、空は夕暮れに近づいて金色を帯びていた。飛び交う耳慣れない言葉を縫うように、すいすいと迷いなく歩いていく男に、慌てて着いてゆく。咄嗟に誰かにぶつかりかけた。大きな声が、わっと怒って何か言った。トルコの言葉はほとんどわからない。家路を急ぐ人、なにか息せき切って議論しながら歩いてゆく人、とんでもなく大きな荷物を抱えているムスリムの女性。交差する人影の中に、ソロの背中が遠くなる。

 すっと、背骨が冷えていくような感覚があった。街路のざわめきが、耳の中で遠のいて、水に潜ったみたいに低く金属質の耳鳴りがする。置いていかないで、思わずそんな馬鹿げたことを口走りそうになり、唇を噛んでどうにか気持ちを落ちつけようとした。指の先がしびれている。わたし、どうかしてる。

「……ギャビー?」

 大きくて温かいものが、そっと肩をつつんだ。ソロの掌だった。

「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。気がつかなくてすまない。立っていられるかい」

「だいじょうぶ。大丈夫ごめん。ちょっと目まいがしただけ」

 だいぶ虚勢を張ったのを多分見通して、ソロはちょっと苦笑いをした。右手に二つの旅行鞄を軽々と持ったまま、左手を差し出す。わたしは、一瞬ためらってから、その手を右手で握った。仲のよい、兄と妹。そういうカヴァーだから。

 ソロの寄り道というのは、駅から少し歩いたところにあるバザールだった。列車の中で読んだ観光客向けのガイドブックに載っていた「グランド・バザール」とはちがう場所らしい。その場所が見えてくる前から、風にはたっぷりとスパイスの香りがまざっていた。

「これがエジプシャン・バザールか」

 石畳の広場から優美なアーチ状の入り口を眺め、ソロは感心したような声をあげた。白く磨かれた石が美しく組みあわさった建物。正しくは、屋根のついた道かしら。ヨーロッパからの観光客より、涼し気な格好をした地元の人間でにぎわっている。

「ソロは、イスタンブールに来たことあるのよね」

「一度ね。そのときは、グランド・バザールのほうを歩いた。その時こっちのバザールのことを聞きかじったんだけど、生憎時間がなくてな。立ち寄れずじまいだったんだ」

 なんとなく手をつないだまま、わたしたちは極彩色の店が軒を連ねたバザールの中の探検に繰り出した。力強い西日が白亜の天蓋に遮られ、ふっと肌が息をつく。

 ソロ曰く別名スパイスマーケット、というだけあって、香辛料を扱っている店が多い。わたしからしたら、多分料理に入れるものなんだろうな、くらいの推測がせいぜいの、赤、黄金色、緑、茶、紫、白と鮮やかな粉末や木の実、香草の数々である。

 ちょっと、あっけにとられた。貧しかったのももちろんあるけど、そもそもドイツではこんなに調味料(と言っていいのかすら分からない)の種類を揃えるという発想がない。基本は塩。たまに、肉詰めにハーブを練りこんだりすることはあっても、その程度だ。こんなにたくさんの香辛料が流通し、それが市民のそぞろ歩く商店街で、誰でも気軽に買っていくものとして扱われていることに、わたしは自分でも思っていなかったほど驚いていた。世界にはこんな場所もあり、こんな暮らし方をする人たちも生きているのだった。

 知らない匂いのする、知らない街に立ち、何かを初めて知りなおす。

 二十年と少しを生きて、たくさんのことを決め、たくさんのことを諦めてきたから、何となく、多くの物を見て知ったような気持ちになっていたけれど。本当のところは、まだ何一つとして知ってはいないような、そんな気持ちになる。期待と不安。心もとなさと、少しのときめき。

 そ、と指が私のあごの下に伸びてきて、軽く押した。

「お嬢さん、口が開きっぱなしだよ」

 笑いを含んだソロの声。

「うそ」

 そんなにぱっかり口を開けたりしていなかったはず……多分。

 量り売りされている黄金のはちみつ。花によって香りが違うのだというそれらは小さな木のさじで味見をさせてもらえた。口の中いっぱいに、ふわんと豊かな春の香りがした。思わず頬がゆるむ。甘いものは、なかなか食べられなかったこともあって特別に大好きだ。途方もなく繊細な模様の絨毯やタペストリーをひやかして、アクセサリーが軒下いっぱいにきらめく店をのぞく。思わず、ソロをじとりと見てしまった。

「何かな」

「盗っちゃ駄目よ」

「なんと、嘆かわしい。俺がこんな簡単でちっぽけな盗みをすると思われているなんて」

 大げさに首を振ってのけぞりながら、ソロの指がすっとつまみあげて掲げたのは、わたしの! バングル! いつの間に! 取り返そうと跳ねるわたしの手首をくるむと、ソロは笑いながらバングルを付け直してくれた。油断も隙もないんだから、もう。

「失礼、失礼。お詫びに、何か買ってあげるよ」

 そんな会話をしていると、まるで本当に兄がいてふたりで旅に来ているような錯覚を起こしてしまいそうになる。


 決して、そんなわけはないのに。


 曇りそうになった表情を隠して、アクセサリーの並ぶ台へ目をやる。薄布の上で、艶やかな明るい水色の石が象嵌された、ピアスやブローチが輝いている。ふと目を惹かれて、わたしは蜻蛉のかたちをしたブローチを手に取った。掌におさまる大きさの、甘くくすんだ金色の蜻蛉。今にもふるえそうな翅の、レースのように繊細な彫刻。背中の部分に、やわらかな曲線の美しい、トルコ石がはまっていた。

「気にいった?」

 訊かれて頷くとソロはさっと手を上げて、止める間もなく、すぐに支払ってしまった。

「いいものか分からないよ」

「気にいったんだろ? そうしたら、自分のものにしてしまう価値がある。どうだ、俺が言うと説得力があるだろ」

 悪戯っぽく笑うソロ、それでも本当にはさっき――雑踏の中で立ちすくんだわたしへの気づかいなのだろう。わたしは、わたしの蜻蛉を手の中に大事につつんだ。

「……ありがと」

「どういたしまして。そして、つまらないことを付け加えると、その石はいい石だよ。腹のほうから石の裏を見てごらん、ごつごつしてるだろ。粉末にして固めたものはつるつるしているんだ。天然のトルコ石だ。お目が高い」

 石の良さは分からなくとも、そういうふうに聞けば、自分で選んだ蜻蛉はきらめきを増すような気がした。ふふ、と笑ってしまう。

「……君が笑うようになってよかったよ」

 ぽつ、とソロが言った。

 わたしが顔を上げたときには、もう次の店に向かって歩きだしていて、どんな表情をしていたかは見えなくなってしまっていた。

 わたしは、胸が内側から刃物で衝かれるような痛みを感じる。

 未だゆるく繋いでくれていた手を、意識して解いた。

「ソロ」

 喉に詰まった熱いものを、飲み下して言葉を絞り出す。そのやり方は分かる。

「騙してごめん」

 思ったよりも、小さな声になってしまった。情けない。このざわざわと賑やかな市場の雑踏にまぎれてしまいやしなかったか、少し不安になった。もう一度口に出してみようか、ソロがどんな顔をしているか怖くてたまらないままに視線を上げる。

 彼は何だか、ぽかんとしてこっちを見ていた。手に、謎の指人形を持ったまま。いや、何それ。露天に並んだ細工物のようだ。ものすごい色合いと、穏やかな表現でいっても猟奇的な顔立ちをした毛糸の人形が、滑らかで美しいどろぼうの指にはまって、ぴこぴこと忙しなく手を振ってくる。人が真剣な話をしようとしているのに。

「えーっと、君は何か、現在進行形で俺を騙したりしてたのか」

「違う。イタリアの、ていうか、東ドイツからの、」

 そうだ、わたしは一体どこから彼を騙していたことになるのだろうか、

「あ、それ? 別に気にしていないよ」

 あろうことか、彼は、まるでちょっと道端でぶつかっただけ、というように、わたしを安心させるように笑ってみせさえした。ソロは毛糸の指人形をもうひとつ選んで中指につけた。毒キノコのような緑色のなかに真っ赤なビーズの目が輝いている。

「よくあるといえば、よくある。俺はけっこう、色んな女性に騙されてばかりだから」

「……そんな話じゃない」

 あの時。指輪ごしに、イリヤに伝わるように話した。イリヤは逃げられる、という確信もあった。だけどソロは、ソロについては、どうなるか分からないことが分かっていて、わたしはそうしたのだ。イリヤが助けに行ってくれると、身勝手で僅かな希望をもちはしたが、あれほど反発しあっていた人を彼がリスクを負って助けに行く「確証」はどこにもなかった。わたしは、ソロの命を使ったのだ。石のように冴え冴えと冷えた視界の中に、あの男が汚らしく指先で潰した葡萄を確かにとらえながら、わたしは。

 わたしが選んで決めて行ったことを、こうして終わった後に謝ってみせるパフォーマンスの卑怯さについて、考えないわけじゃない。それに、線引きがこの仕事の難しいところだけど、それでもやはりあれは仕事であったこと、そしてそれを、わたし以上に、この男性が割り切っているのだろうことも、分かっているつもりだ。

 だけど、ただ、ただ耐えられそうになかった。口に出さずにはいられなかった。あんなふうな成り行きに、なってほしかったのじゃないのだと、どうしても、わたしの言葉で知ってほしかった。

 この人のことを――ナポレオン・ソロと名乗る男の人のことを、本当には知らない。彼のとってみせるポーズのどこまでが本当なのか、わたしには分からない。

 それでも、一連の収束のあと、思わぬ再会と始動に戸惑うばかり、目を伏せてばかりのわたしの前で、ぱん、と掌を合わせて瞳を踊らせ、イタリアのあたたかい街へわたしの手を取って繰り出して。飽きずにブティックを何軒も連れまわされた。懲りずに全然好みに合わない服ばかり持ってくるから、わたしがしぶしぶ意見を言い始めると、そうそう、そうやってどんどん好みを言葉にしたほうがいい、君が着る君の服なんだから。そんなふうにウインクをする仕草が、映画俳優のように決まっていた。今着ている濃い紫のワンピースも、なんとなく引き寄せられたままフィッティングをしたわたしを前にして、似合う、すごく似合うな、ねえ君もそう思うだろ、と店員の女性まで楽しそうに巻き込んで、アクセサリーをあれこれ合わせてはやっぱり似合う、きれいだよと褒めた。恥ずかしいからいい加減にやめてとわたしがたまりかねるまで。そのくせ、わたしを見る目には彼がもったいぶって吹聴する欲なんてひとつもなくて、ただただ優しいばかりだった。バングルで隠した手首の擦り傷を包むあたたかい掌に甘えたまま、イタリアの明るい石の道を歩いた日。

 わたしが選んだのに。わたしが父を失ったのは、わたしが選んだことの結果なのに。

 わたしはソロの命を使ったのに。

『ギャビーはきれいだな。強い色がよく似合うし、姿勢がいいから服の魅力が増す。兄としては心配なくらいだね』

『……兄じゃない』

『イスタンブールでは、そうだ。今から慣れておかなきゃ』

 お兄ちゃんだよ、と完全に面白がっている声につられて、わたしは思わず笑ってしまった。声を出して笑ったのは久しぶりだった。そうして、目がくらむような日差しの下、一瞬の幻影をよぎらせた。

(僕のギャビーは世界でいちばんかわいいね)

 もうそれが本当にあったことなのか、それともわたしが繰り返し思い描くうちに作り上げた都合のいい幻影なのかも分からない、遠い遠い父の声。あの日、わたしは父が死んでから初めて、つばの広い帽子に隠れて泣いたのだった。その時も、ソロの掌は手首をやわらかく握ったまま、ゆっくり揺れていたのを覚えている。

 どうしてそんなに、この上なく穏やかなやり方で優しくしてくれるのか、わたしには分からない。

 わたしはこの人のことを、何一つ知りはしないけど。どんなふうに悲しみ、どんなふうに選び、どんなふうに人を愛してきたのか、ひとつとして知らないのだけれど。

 それでも、もう一度会うことができた。だから、わたしは、わたしの言葉で、この人の優しさに向き合いたい。もう会えないと思った人と、こうして会えることは、ほとんど奇跡だ。少なくとも、わたしにとってはそうだ。もう会えないかもしれないと思い、その予感から目を背けたままに別れた人たちを、わたしはみんな失ってしまった。

「ギャビー」

 芯の通った、豊かな声がわたしを呼んだ。呆れのような姿勢をとって、それでも、それは確かにいつくしみの声だった。西ドイツの人ごみの中、激高したわたしを呼び止めたのと、同じ声だった。

「俺は、君を尊敬しているよ」

 ソロは静かに言った。

「俺も、イリヤも、君の覚悟の前ではかたなしだった。そして、君は最後まで、決めたことをやり遂げた。それは誇っていいことだ。どんなに君が過程や結果を悔いていたとしても、俺はそう思う」

 ソロが店主に声をかけて指人形を購入している後ろで、わたしはその言葉が、ゆっくりと心の底に沈殿してゆくのを感じた。

「それに、あのペリルと一夜をともにして生き残るなんてな」

 そのくせ、またそんな風に茶化すのだから、この人は。わたしはつとめて笑うと、どうも彼が抱いているらしい重大な誤解を解きにかかる。

「ねえ、わたしイリヤと何にもしてない」

「はあ?」

 今度こそソロは顎が外れそうな顔をした。正気か? 一晩、婚約者という設定で一緒にいて? 君というか、あいつは正気なのか? とめちゃくちゃに真剣な声でいぶかしむソロにぬるい目線を刺しておく。

「みんながみんな、あなたみたいに『夜更かし』なわけじゃないから」

「そういう問題じゃなくないか? 最後も、まあ最後ではなくなったわけだけど、あんなに良い雰囲気だったじゃないか」

「あっ、やっぱり覗いてたの」

「いや勿論そういうわけじゃないともははは」

「待ちなさいよこの悪趣味男」

 わたしに思い切り二の腕をつねられながら、まあ、君たちらしいといえばらしいな、とソロは笑った。彼が普段気取ってつくる笑顔ではない、やわらかく、どこか困ったような笑顔だった。

 バザールをすみずみまで歩きまわってからランデブーポイントのガラタ橋に向かうと、陽はすっかりと海の中に落ちて、イスタンブールの街は薄紫のヴェールをかぶったようだった。そこかしこで明かりが灯されはじめ、家路をゆく人たち、川辺の夕食に訪れた人たちで変わらずに賑わう。ボスポラスの海峡を渡った風は素肌に冷たい。ガラタの大橋は、昼よりもいっそうの人ごみだ。二層からなる浮き橋の下層には、採れたての魚や魚介類を使った軽食の屋台が立ち並ぶ。どの店も人だかりができて、辺りは穏やかな喧騒に満ちていた。

 薄暮の景色の中、ガラタ橋のヨーロッパサイド、というだけの情報でイリヤと会えるのか、わたしは少し不安になる。人ごみの向こう側に、あの少し肩を丸めた長身が見えないものかと、目をこらしてみる。ソロはというと、そこらで買ったサンドイッチをのんびりとぱくついていた。不安はないらしい。

「うん、どんなものかと思ったが当たりだ。ギャビーも買うといいぞ、サバのサンドイッチ」

「ひとくちくれるっていう発想はないの?」

「……一瞬遅かったな」

「くれる気がないなら普通にそういってよ」

「そんなに心配しなくても、あいつなら定刻どおりやってくるさ。何せナンバーワンだから」

 もにもにと頬を動かしながら、実にくつろいだ様子でソロは言う。

「暇なら、マン・ウォッチングの講座でもしようか? 人を探したり、人に探されたりするのは多いから役に立つ」

 道行く人の服装、仕草、持ち物、歩き方から素性を推測する方法。逆に、探したい人物がいる場合は、その背景と情報に合わせて目を使うやり方。一通りのことは学んだつもりでも、行き交う人々を前に実際に行うのでは、勝手が違った。目の使い方を誤ってあらぬ方ばかり見るわたしの視線の先をソロが自然に修正する。

「相手のほうもこういったやり方を知っている場合、まあ往々にしてそういうことはあるが、難易度は上がるな。お互いに完全ということはない。ある種、経験によって鍛えられる勘のようなものでとらえることも多いから。――ほら、」

 ソロはひょいと片手を上げた。

 そうされて初めて、わたしは、少し離れたところに立っている背の高い人に気がついた。人ごみの中をずっと見ていたのに、全く気がつかなかった。濃い色のシャツの袖を軽く折り返し、最後に会ったときよりも少し伸びた髪が夕風に乱れている。

 イリヤ。

 何か、とても不思議な感覚がした。トルコの夕方に、イスタンブールの街に、イリヤがいる。彼とだって、ほんの少し前に出会っただけだというのに、胸に確かに広がるのは安心感に似た、あたたかい気持ちだった。また、会うことができた。ただそれだけなのに。変わらない、一見不機嫌そうな無表情が、ちょっと涙が出るくらい懐かしかった。イリヤのほうも、少し戸惑ったように、何回かまばたきをした。

「迷子にならなかったか?」

 ソロときたら、イリヤと会った途端に、声がすごく意地悪になっている。イリヤのほうもすぐに見慣れた仏頂面になる。男の子たちときたら。

 ああ、――もう二度と会えないと思った人たちと、もう一度会えた。彼らはわたしの家族じゃないし、友だちというのも違うし、恋人でもなく、でもビジネスのために使ったり使われたりするだけの関係じゃない。そう思う。この人たちは、わたしにとっての何になり得るのだろう。それは、今のわたしには分からない。けれど、もう一度会うことができたから。これからたくさん話して、明日を分け合うことができるから。今はそのことを、心の奥ふかい場所で、大事に理解したい。

 やっぱりすごく気になるから食べてみたい、サバのサンドイッチ。ひとりには大きすぎるかな、半分イリヤが食べてくれないかな。イリヤ、夜ごはんは食べたのかな。そんなことを考えて、わたしはちょっと笑い、ソロと一緒にイリヤのほうへ歩いていった。




 ――随分と、遠くまで来たものだ。

 張った気の隙間から、郷愁に似た感慨が忍び寄るのを感じて、イリヤはわずかな不快感を意識して追いやる。余計なことを考えるのは嫌いだった。解決法がないこと、感情に関わることは特にだ。

 しかし、そんな自分らしくもない感傷を許してしまうほどに、夕暮れのボスポラス海峡、ヨーロッパ・サイドの壮麗な宮殿が背負う影を一望する眺めは素晴らしかった。辺りはこの景色を一目見ようと訪れた観光客でごった返している。海峡を渡るガラタ橋の夕暮れを、イリヤは再び訪れていた。残照を受けて雲は薔薇色に燃えたち、決して河ではありえない荒々しさの潮が金に揺れる。辺りは甘くやわらかい潮風でここちよい。恋人たちが多いのも、無理からぬことだった。

「隣にいるのがお前だと思うと、ムードが良すぎて身投げしたくなってくるな全く」

 しみじみと、同行者が深刻な顔をして言ってくる。腹の底が苛立ちでじり、と燻る。人が意識して黙っていたことでも思い切り踏みぬくのがこの男の性質なのだと、段々にイリヤもわかってきてはいるが。

「黙れ」

「黙ってたんじゃ仕事にはならん。そもそもお前と『おしゃべり』に来たんだから」

 うそぶいて、ナポレオン・ソロはもう一口、揚げた魚と野菜を挟んだパンにかぶりついた。旨そうに頬を動かしている。心なしか、こいつはいつも何かを食っているような気がしてならない。任務に関わっているときは基本的に寝食に対する欲求を遮断しているイリヤからしてみれば、考えられないことだった。最も、ソロのほうもイリヤとは別の理由で睡眠をおろそかにしているようではある。総合して、ソロに対するイリヤの理解というのは、今のところ「理解不能」に落ち着いていた。

「食うか?」

「食うわけないだろう」

「旨いのに」

 こういう男と、一緒に仕事をしなければならない。イリヤは、正直対処しかねていた。

「……本題を」

「せっかちは女性に嫌われるぞ、わかった、わかったから拳を構えるな。それらしい糸口は掴みつつある。もう少し探りを入れるが、明日明後日のうちには接触できそうだ。まあ、向こうにも色々な意味で余裕がないらしい」

 イリヤ、そしてソロとギャビーは今回二手に分かれて動いている。イリヤのほうは拠点を定めていないが、どうもソロの探っているほうが当たりであるらしく、そちらのサポートを行う状況になりそうだった。こうして情報を共有しているのはそのためだ。主導で動けないことにフラストレーションがないといえば嘘になるけれど、そもそもイリヤには自分の裁量で動けることが多くはない。結果も、結果に至るまでの過程も、管理されて当然という組織に、あまりにも長く所属している。なので、UNCLEの取ろうとする放任の姿勢には、慣れない。無論、完璧にこなしてみせるつもりではいたが。

 ――誰にも管理されるつもりがなさそうなこの男には、無縁の感情だろうな、と思った。

「そちらは」

「今のところ、手ごたえがない」

「ふぅん」

「何か文句でもあるのか」

「いちいち突っかかるなよ。ちょっと変に思っただけだ」

 なぜ、俺のほうの釣り針には引っかかってきたんだろうな。ソロは目元を軽薄に歪めて笑った。

「『実家が裕福な大学院生』よりも、『ギリシャ系の貿易商』のほうがよほど金の匂いがするじゃないか。俺のほうに食いついてくる性急さと、それでいてお前に接触してこない慎重さに、どうもずれがある」

 ま、事前の話からして大体見当はつく。何でもないように言って、ナポレオン・ソロは指についたオリーブオイルを舐めとった。そういう貪欲な仕草が、一幅の絵のように似合う不思議な男だ。

「イデオロギーってやつだろうな」

 ――古今東西、飯をまずくさせることでは右に出る物のないスパイスだよ。

「何にせよあと数日はかかる。精々イスタンブールを楽しめ、赤の脅威(ペリル)」

 言いおいて、橋の欄干から身を離し、トラウザースのポケットに指をひっかけてソロは歩み去った。雑踏の中に、あっという間に気配が消える。ちょうど焼きあがったのか、辺りに奴が食べていた軽食の香ばしい匂いが漂ってきて、イリヤは眉間にしわを寄せた。

 夕暮れが深くなってきた。アヤソフィア聖堂は蒼の影を抱いて、悠然と夜に沈んでいこうとしていた。

 なぜ謂れのない郷愁にとらわれたのか、ふと理解する。空を切り取る丸屋根。尖塔。モスクワの、赤の広場から見上げるそれを無意識のうちに想起したのかもしれない。それでも、アヤソフィアのクーポラに、思い返す故郷の聖堂の威圧感はない。人を見下ろし、頭を垂れよと示す厳めしさよりも、こうして夕飯を求めて市場や屋台を訪れる人々と親しみのまなざしを交わしあっているような趣があった。そう感じるのは数多の宗教と民族を抱え込み混然と繁栄をしてきたこの都市の風がなせる技なのか、それとも、ひとえにイリヤがよそ者であるからなのか。

 イデオロギーをあの男のように言い捨てることは、イリヤには決してできない。イリヤはイデオロギーの尖兵として生きることを、もうずっと昔に選んだのだから。

 ソロと次にコンタクトをとったとき、場所を移そう、とイリヤの返事も聞かずにソロは歩きだした。

「おい、どこへ行くつもりだ」

「俺とギャビーが泊まってるアパート」

「正気か」

「お忘れかもしれないが、俺たちは『異国で出会った友人』だぞ? 夕食に招きもしないのがむしろ怪しい。つべこべ言わずについてこいよ。どうせお前、このところ碌に食べていないだろう」

「……お前には関係ない」

「事が動く前に腹にはしっかり物を入れとくべきだ」

 聞く耳を持たずにさくさく歩いていくソロは、橋を渡ってヨーロッパサイド、イスタンブール大学にほど近い路地へ入っていった。学生用のアパートメントも多くあり、中・長期滞在する旅行者としてソロたちが利用するのも不自然ではない。

 陽に灼けた濃いオレンジ色の外壁のアパートメント、通り沿いの三階。キッチン付きの角部屋が滞在している部屋だという。外壁と同じ色に塗られたドアを開けると、外から見るよりは広い部屋が広がっていた。

「イリヤだっ」

 部屋をまじまじと検分するまえに、腹にやわらかいものがぶつかってきて瞠目する。やわらかいものというか、夕方も早くから完全に酒の匂いがする、ギャビーだ。

「あ、駄目だって言ったのにひとりで吞んだな」

 ソロは呆れた顔をしている。

「指示系統がちがうのよふふふふ」

 若干不気味だ。腹にくすぐったい笑いをこもらせて、腰に手を回しているギャビーは、ぐりぐりと額を押し付けて剥がれない。イリヤは、ひたすら困った。

「ギャビー、イリヤを部屋に入れてやれよ」

「何よ、わたしのせいで入れないみたいな言い方して」

 事実そうなのだが。

 しぶしぶ、と顔を上げてソファに戻っていったギャビーを見送る。イリヤの腹筋に押し付けた形のままで、前髪がふわふわに跳ねている。驚きで固まった心拍が徐々に戻るのを確かめながら、結果的にソロに助けられるかたちになったことをわずかに忌々しく思った。ギャビーのもつ距離感の物差しと自分のそれは徹底的に異なる目盛りをしていて、こうして出会ってしばらく経った今も、イリヤはそれに慣れることができないままでいる。

 入り口のコート掛けには、トレンチコートが男物と女物ひとつずつ掛かっていた。上のところにハンチングを預ける。大きさと色合いの違うコートが仲良くかかっている姿は、何となく微笑ましい。兄妹というカヴァーには無理があるのではないか、とイリヤは内心思っていたのだが、こうして部屋の様子やら、すっかりくつろいだ様子のギャビーの姿をみていると、ソロとギャビーの相性はなかなかよいのだろう。――自分のような、どう考えたってコミュニケーション能力に欠陥のある人間ともうまくやってみせた彼女だし、ソロが女性をひどく扱う訳もないのだから上手くいくのは当然のことか。むしろ、イタリアのほうが、不安要素だらけではあったのだ。

「変な顔して立ってないで、座れよ」

 そういうソロは、どういう風の吹き回しなのか、シャツの上にエプロンをつけて腰ひもを結ぼうとしている。ナポレオン・ソロとエプロンという組み合わせの不可解さに、思わず目を剥いて凝視する。ていうか何だそのエプロン。何か、踊り狂う鳥のような(鳥という断言はできない。角が生えているようにもみえるし、そもそも鳥とは何かを吐く生き物だっただろうか多分違う)図柄の、常人の感性ではわからない配色の布地である。まさかとは思うが私物か? ナポレオン・ソロの? 

「ソロのごはん、おいしいのよ」

 袖を引っ張ってソファにイリヤを座らせようと苦心していたギャビーが、くしゃっと笑った。彼女がそうやって、本当においしいのだという顔をしてみせなければ、イリヤは敵国のスパイが作ったものを口になど決して入れなかっただろう。でも、そうして自分が拒絶することで、ギャビーのその言葉に傷がついてしまうのは、イリヤの望むところではなかった。キッチンからあぶらの温まる香りと、手際よく動くソロの姿が見える。

 気持ちよく整えられた窓際の、飴色のダイニングテーブル。麻か何か、褪せた桃色の布がかかっている。ギャビーがもたもたと椅子を引いて腰かける。半分ほど空いた白ワインの瓶と、飲み干されたもう一瓶に、酔っぱらいの経緯を理解する。

「ごはんはまだでしょうか」

「まだですよ」

 なぜか改まった口調でソロを問い詰めている彼女の横顔に、窓辺の置かれた香油ランプがやわらかい影をつくっていた。

 つまみもなしにワインを注ごうとし続けるギャビーをさりげなく極力阻む作業に執心していると、シャツの袖をまくったソロがフライパンとグラタン皿を運んできた。豆の入ったピラフと、茄子とひき肉のパイのようなもの。出来立てからふわふわと漂う湯気が、馴染みのないスパイスの香りと一緒に鼻をくすぐる。忌々しくも正直な胃袋が、きゅっと動くのを感じた。

「召し上がれ。って、もう召し上がってるレディもいらっしゃるな?」

「ピラフおいしいわ」

「そりゃどうも」

「ほら、お前も早く皿に取らないと、ギャビーが全部食べつくしちまうぞ」

「食べつくしちまうぞ!」

 頬をぱんぱんにして恐喝しないでほしい。無言でフライパンから米をとりわけて口に運ぶ。つぶの大きいひよこ豆と、細切れの羊肉がほどよい塩気で細長い米に絡む。

自分も遠慮のない早さで食べながらソロが解説するのを聞けば、パイもどきはムサカという料理らしい。茄子とひき肉、つぶしたじゃがいもの上に小麦粉をバターで伸ばしたベシャメルソースをかけてオーブンで焼く。

「ソースにひと工夫してあってな。ああ、我ながら旨い」

「おいしいわ」

「ギャビー、いつも思うんだが他のコメントはないのか?」

「すごくおいしいわ」

「あの、ソースがすごくついてるぞ」

「どうせ拭いてもまたついちゃうからいい」

 イリヤは無言のままもぐもぐと頬を動かした。認めるのも癪にさわるが、味がいいことは確かだった。羊肉を食べ慣れてはいないので、店で食べる肉料理はどうにも臭みが強く旨いとは思えなかった。そもそも、イリヤはあまり食事にこだわりを持たないので、毒でなくて腹持ちがすれば何でも構わないのだが。ソロの作った料理は、羊のもつ豊かなあぶらの香りが他の具材とよく溶けていた。いっしょに皿にのせたムサカの茄子からたっぷり汁気がしみて、それはそれでまた旨い。

 もももも、と咀嚼して、まだフライパンに残りがあったので、既に幾度かおかわりをしているギャビーを横目にもうひとすくい皿に載せる。と、真向かいで口を動かしながら微妙に驚いた顔をしている料理人と目が合った。

「……なんだ」

「……いや、なんでも」

 ギャビーは、つまみが存在するのだから文句は言わせないと毅然とした表情で主張しながら、先ほど遠ざけられた白ワインとの再会を果たしている。

 いったい、これはどういう状況だろう。上司に知られたら、出向は了解済みのこととはいえ、決していい顔はされないだろうと思う。それでいて、では具体的に何に対してどのような咎めを受けるのか、イリヤには分からない。こんな状況は考えたこともない。イリヤの素性も、スパイだということも、あるいは過去も知る外国人と食卓を囲んでいる。あれだけイリヤを侮り、侮辱した国際犯罪者が手ずから作った料理を、旨いと思って食べている。いったいどういう態度を取ればいいのか、正直に分からないのだ。国や所属は違っても、仕事をしばらくは共にする仲間として懐を開く? 


 そんなことができるわけがない。そんなことに意味があるはずもない。イリヤはKGBだ。国家の意志を、イデオロギーを背負って働く誇り高い共産党員だ。――いつか、当然下るべき指示が下れば、やはり殺さなければならないのだ。この、間抜けなエプロン姿の男と、白ワインでへべれけになっている女性を。″それが必要なら”。ソロが時計を投げてよこした時、一時の勢いでテープを燃やしたときの、何か吹っ切れたような清々しさは身の内から失われてしまっていた。イリヤが生きていく限り、やはり逃げることなど、自由になることなどできないのだ。イリヤがイリヤ・クリヤキンとして生きていく限り。

 急に味のしなくなった羊肉を噛みながら、イリヤは頭の片隅で僅かにいぶかしんだ。イリヤは喜びをもって国家に、父と母と自分の祖国に奉仕している。逃げたい――自由になりたい、などと考えたことは、そもそも決してなかったはずだった。


 食後、ソロがチャイをすすめてきたが断った。彼は特に気にした様子もなく、自分とギャビーの分を淹れてすすっている。アジアで見かけるチャイと違い、乳で濁ってはいなかった。そういう飲み物なのだろう。

「――明日」

 ソロが、素焼きのカップを指にひっかけるようにして傾けながら言った。

「夕刻に落ち合うことになった」

 す、と頭の芯が冷える。ギャビーが、静かな表情でカップを手に包んだ。ようやく事が動く。軽い緊張感とともに、自分が安堵しているのに気がつく。

(仕事が始まれば)

 少なくとも、どうすればいいのかは分かるのだ。

「場所は」

「それがまた辛気臭くてな」

 地下宮殿を知ってるか、とソロは笑った。つくづく仰々しい連中だよ、全く。

 イェレバタン・サラユ。アヤソフィア聖堂を抱くヨーロッパサイド旧市街の広場の一角に位置する遺跡だ。イスタンブールがコンスタンティノープル、あるいはビザンティウムと名を変えて呼ばれてきたように、この遺跡もまた、イェレバタン・サルヌジュ、バシリカ・シスタンと様々に呼称されてきた。とはいえ、それらの意味するところはほぼ同じであり、現在はこう通称される、

 ――地下宮殿、と。

 実際のところは地下に建造された貯水池だ。広大な空間に、太い柱が立ち並ぶその壮麗ゆえ、宮殿と呼ばれている。イリヤとて昼間大声でしゃべっていた観光ガイドの聞きかじりだが。

 公開されている入り口は一つしかない。観光客向けの開放時間が終わったあとは無人になるため、守衛を抱きこめば確かに密会の場所として成り立つ。

 ソロが学生という設定で種を撒き釣り針をしかけ、トルコ現政権に反感を持つ外国人――しかも『裕福な実家』をバックに持っている、という人物の情報を流していたところに、組織が食いついてきたわけだ。貿易商としてよほどあからさまに金をちらつかせていたイリヤのほうにはほとんど接触がなく、いくら実家に金があるとはいえ自由に裁量できる程度が限られているだろう学生にのみこうして場を設ける。しかも、町の一角ではなく、こうした史跡をわざわざリスクを負ってまで選ぶ。ソロの仄めかした通り、何らかのこだわりが強い集団であることは間違いがなかった。

 ソロは大きな柱を背にして、力を抜いた様子で立っている。辺りは管理用のほのかな灯りで足元から照らされている。宮殿と例えられる所以の、整然と並ぶ柱と広大な空間の上部は薄暗がりに吞まれてどこまでも続くように見えた。ソロの姿が視認できるぎりぎりの位置に、イリヤは身を隠している。

「……お待たせを」

 定刻より少し遅れて、三人の男たちが姿を現した。

(軍人ではない。訓練も受けていない)

 ウェーバリーの読みが正しければ、彼らは軍部によって倒された旧政権の勢力なのだから、当然というところか。

「いえ、こちらこそ、こうしてお会いできて光栄です」

 CIAの男は実に自然に、緊張しつつも少し高揚した声をつくっている。

「あなたが我らと志を同じくしてくださる方だとお見受けし、嬉しく思っています。我々にはあなたのような方が必要だ――怒りを同じくしてくださる方が」

 なるほど、芝居がかった物言いをする。行動に酔った者特有の言い回しと分析しながらも、その言葉の選び方に、何か引っかかるものを感じる。

(怒りを同じくする)

「僕のような外国人の学生に、こうやって会っていただけるなんて思っていませんでした」

「我々の門は開かれているのですよ。こうしてお呼び出ししたのも、我々に共感してくださるあなたを信頼したからこそだ。お話にあったように、我らの指導者も、ぜひあなたと話したいと」

 ソロは、想像した以上に組織との距離をつめているようだった。あの男のことだから、くすねた宝飾品を現金に換え、ちらつかせている可能性もある。裕福な実家、としかカヴァーについては聞かされていないが、この食いつきようからすると貴族だとでも思わせているのかもしれない。

「指導者の方と? それは願ってもない」

「ただし、」

――あなたの怒りを確かめさせてください。

 イリヤだけでなく、ソロもさすがに当惑したようだった。怒りを確かめる。聞きなれない言葉だ。

「……というと?」

「こちらを」

 話していたリーダー格が、脇に控えていた男に目線をやった。心得た様子で、小さな器に液体が注がれる。

「これは……」

「我々に恵みをもたらすものです」

 ――そういうことか。思わず内心舌打ちをする。こうして、外部から招いた協力者には例の薬物を与えているのか。その協力者を伝って芋づる式に薬物が広まり、その依存性ゆえに協力は継続するというわけだ。目的を掲げていようがいまいが、やり口は立派な犯罪組織そのものだった。

「どうぞ」

 穏やかに、しかし有無を言わせない表情で、男が促す。

 イリヤは全身を緊張させた。三人ならば、どうにかなる。指導者の居所は、拘束して吐かせればいいのだから。

 一瞬、誰にも気が付かれないほどさりげなく、ソロがイリヤのほうに目線をやった。それでも確かに、まなざしがひたりと合った。

(まさか)

 ソロは迷いなく器に手を伸ばし、中身を一息に煽った。ややあって、額を手で覆って顔をうつむける。

「――、」

 なにごとか男が満足げに語りかけるが、ソロは答えない。

(あの馬鹿、何を考えているんだ)

 未だ一言も言葉を発していなかった、淡い髪色の男が歩み出て、ソロに紙片を握らせた。

「後日、こちらでお会いしたい」

 その低い声とアクセントがイリヤの記憶をかすめる。そのまま踵を返して男たちは立ち去っていったが、完全に気配が遠ざかるまで、重心を崩して立っているソロの姿を見ているしかない焦燥がその引っ掛かりよりも優先された。

 ソロが、柱にもたれてずる、と座り込む。

「おいっ」

 周囲に注意を払いながら駆け寄ったイリヤが肩に触れると、ソロは唸った。服ごしにも熱い。額に玉のような汗が浮かんでは流れる。のぞき込んだ瞳孔が拡散し、ブルーの瞳がこの世のものとも思えない輝きを放っていた。尋常な様子ではない。問答無用で熱く汗で濡れた顎をつかみ、喉奥に指を押し当てる。ソロが鈍くえづいて、胃液まじりの液体をわずかに吐く。症状からしてすぐに吸収されてしまっただろうが。明らかに、薬の効果として想定されている以上にソロは過敏に反応しているようだった。ショック死もあり得る。薬の純度が安定していないのか、開発されたばかりで薬物としての実証データもろくにないまま流通させているのか。いずれにせよ、まともに機能している組織のやることとは思えない。

「話せるか。意識を確認させろ。俺の名前を言え」

「……イ、……イリヤ。イリヤ、クリヤキン、」

 ソロは、焦点の合わない目で笑った。

「イリヤ、わかるか、……怒りだ」

「水を飲め。血中濃度を低くする」

 イリヤはソロの首元をつかむと、細くそこここに流れを作っている水路に無理矢理口をつけさせた。どう考えても衛生的ではない水をそれでもソロは飲み、噎せる。呼吸が荒い。水を、飲ませなければならない。

「イリヤ」

 ナポレオン・ソロらしからぬ、低く潰れて、荒れた声が、ある激しさを内包して呼んだ。

「おまえが、気に食わない、よ」

 轟々と燃える青の瞳が、イリヤをとらえる。

「どうして俺を助ける」

「おまえが、」

 イリヤは言葉に詰まった。仕事に差し障るから。借りがあるから。協力関係を保てと、上司から命じられているから。どれも正しく、しかしどれも当てはまらない。ソロの二の腕をつかむ自分の指が、瘧にかかったように震えている理由にはならない。この男が、こんな薄暗い地下でつまらない理由で死ぬなど絶対にあってはならないと、今も心臓が鳴っている理由には、なるはずがない。

「そうやって、おまえ、――」

 こんな状況でも、ナポレオン・ソロという男は笑みをつくるのをやめられないのだ。口の端を引きつらせ、咳き込んで苦い唾を吐きながら、笑う。

「――、おまえは、馬鹿げてまっすぐ、生きて死ぬんだな」

 取り合っていられず、男を担ぎあげるべく屈んで脇の下に腕を入れた。

 不意に、ソロが唸るような声をあげて、イリヤの肩口に噛みついた。一切の加減なく、肉を噛みとらんばかりの強さで歯をたてられた。実際に、服ごしでなければ皮膚を噛み破られていただろう。肉に犬歯が突き刺さり、焼けるような痛みが爆発する。ソロの体が熱い。噛み口からその熱を流し込まれたかのように、痛覚が燃えた。

 イリヤは握った拳をソロの鳩尾に食いこませた。衝撃に固まった体が、次いで弛緩する。イリヤは力を失って重たさを増した体を背にかつぎあげ、虚ろに広大な地下を立ち去る。薬物への対処。今後の接触。アドレナリンにびりびりと滲む脳裏をいくつものことが過ぎ去り、ソロの掌から握りとった紙片と、それを渡した男の声、立ち去り際の横顔が、西日を受けた海峡の水面のように鈍くきらめいては消えた。ロシアの訛り。第一総局の資料で目にした、生真面目な顔の男。

(おまえの言う通り、)

 俺はこうやって生きる。この今日に連続する明日もこうやって生き、

 ――そして死んでいくんだ。

 肩口は、ソロの唾液と、おそらくは自分の血液で重たく濡れていた。




 生まれてからこのかた、何かに執着したことがない。

 きれいなもの、着心地のいいものは、どちらかと言ったら好ましい。ひとりの夜よりも、女性と過ごす方が、どちらかといったら楽しい。そうやって夜から夜へ、昼から昼へ、国から国へ渡り歩いて、気の向くまま、金の動くまま、目によろこばしく美しい芸術品を手に入れては手放して、そうすることに何のためらいもなかった。自分の手もとに置いておきたいなんて、頭をかすめたことさえなかった。

 手先は幼い時分から器用だったし、生まれた街よりもどちらかといえばマシだと思って入った軍隊では、思いのほか有用な技術や人脈を得ることができた。天分というものがあるとすれば、泥棒が自分のそれだったのだろう。いつだって、掌の中になにひとつ握らず、ソロには楽しさと満足があればよかった。そして、スリルがあればよかった。時折、ぼうっと水の膜がかかったように、自分の生を俯瞰しているような気分になることがあって、無意識のうちに、それをそのままにすれば自分は糸の切れた凧のようにあっけなく死ぬだろうと分かっていた。強烈な死への肉薄と、沸き起こる生の実感がつきぬける感覚を、ギャンブルに求めた。金、宝石、命。何でも賭けた。賭けるものは、取り返しがつかないものであればあるほど楽しい。そうしているうちに少々面倒なことになって、面倒な仕事をしなくてはいけなくなった。表向き、よりマシだった生活を思い比べてため息をつきながらも、実はそれほど響いてはいなかった。どこにいても、変わることはない。盗んで、手放して、儲けて、賭ける。それだけだ。それだけだった。

 東独の夜を引き裂いて、あの男の視線がソロをガラス越しに射抜いたとき、ふいに視界が鮮やかになった。 

 ――こんなやつがいるのか。 

 ずっと視野にかかっていた、薄く居心地のよい膜が剥がれさったような、鮮烈な心もとなさ。それがどんな感情によってもたらされたものだったのか、ソロは未だに答えを持たない。

 ところで、ソロは久しぶりに夢で母と会っている。

 母は別れたときと同じ年の姿で、もしかすると、今のソロと同じか年下の可能性がある。色濃く塗りこんだ粉とアイシャドウの下、くちびるをボルドーの口紅でふちどったかたちが頼りなく、母の本来の年齢を伺わせた。

「あんた、また殺しちゃったの」

 母の足元には、ソロがイスタンブールにやってきてから出会い、話をし、ベッドを共にして、そして死んだ女性が人形じみた手足の投げ出し方で倒れている。

「母さん、人聞きの悪いことを言わないでくれよ」

 ソロが殺したのではない。少なくとも、手を下してはいない。ウスキュダルで出会った、髪の短いひとだった。言うまでもないことだが、偶然出会ったわけはなく、意図を持って近づいた。豊かな胸と、少年のように細い手首のギャップが魅力的だった。くちびるに強く引いたボルドーのリップも、ひとつも似合っていないところがセクシーだった。ソロに抱かれて、身も世もなく声をあげているときでも、いつも怯えた死にかけの鹿のような目をしていた。彼女は溺れていた。もう、売人からも見放されかけていた。どうしたらいいのかわからないのよ、と言いながら、薬液を染み込ませた葉を、紙で巻いて吸っていた。

(心配しないで、僕がなんとかしてあげる。何もこわがることはないよ。もうこわがらなくていい、何もかもうまくいくよ)

 彼女は、ソロの言葉を暴力的に信じた。砂漠が雨を吸いこむように信じ、縋った。

(あなただけだわジャックわたしをたすけてくれるのはあなただけぜったいにはなさないでねわたしをだいていてねずっと)

 ソロが殺したのではない。彼女は、もともともう取り返しがつかないくらいに薬に侵されていて、そしてある穏やかな午後、ひとりきり、指に紙巻を挟んだままで、床で人間をやめていた。ソロは、彼女が奮発して買ったのだと嬉しそうに自慢していた絨毯の上に彼女を寝かせた。それだけだ。

「でもあんたが殺したのとおなじね」

 母は、彼女特有の、幼いアクセントで言う。

「あんたがあたしを置いていったときといっしょね」

 ――嘘つきのナポレオン。

 右端だけ色が歪んで欠けた、ボルドーの唇。

 頬がじりじりと熱いのは、窓から入る昼下がりの光が当たっているからだった。粘性の日差しに目をすがめてソロは身を起こし、口の中の不快感に顔をしかめる。

「起きた」

 ベッドサイドにギャビーがひらり近寄って、カーテンを閉める。ふ、と体が休まるのを感じる。

「ありがとう」

「いーえ、こんなこと何でもない。失神してるのに体はぶるぶる震えたまま、後部座席に投げ込まれて帰ってきて、例の人たちにすすめられた薬をごまかしもせずコップ一杯一気飲みしたって後から聞くことに比べたら、カーテンなんて百枚でも二百枚でも閉めて差し上げます」

「……、ギャビー、ひょっとして怒って」

「ハ?」

 いつぞやも聞いたような、しゃがれてドスの利いた声で聞かなかったことにされ、ソロはもう大人しく薄掛けに包まることにした。よく分からないがレディはたいそうご立腹のようである。しかし、日の角度からしてもう昼過ぎだった。自分ながらちょっと近年まれに見るほど耐性のない薬物だったようなので、もしや一日や二日は寝ていたかもしれない。さぞかし面倒をかけたのだろう。何らかの埋め合わせを考えなければならない。

 汗と皮脂で気持ち悪い額を、すっと冷たく濡れた布がぬぐってくれる。薄目をあけると、ギャビーが枕元の水盆で布巾を濡らしてはギリギリとしぼりあげている。

「悪いな」

「だからいいって言ってるの」

 彼女はようやくちょっと笑った。

「ようやく起きたか」

 ベッドルームの入り口を、いつもながら不機嫌そうなソヴィエト人の顔がのぞいた。

「俺、何日寝ていたんだ」

「二晩だ。予定が狂うにもほどがある」

「悪かったって。あんなに過剰反応しちまうとは思わなかった、ギャビー、ギャビー布巾がちぎれるからやめてやってくれ」

「布巾を気遣ってる場合?」

 もはや水分がほとんど全てしぼりだされて石のような布巾でソロの上掛けを叩き、彼女が怒りを再燃させた。

「信じられない。どう考えても怪しい薬を準備もなしに飲むなんて。ソロだったらなんとでもできたはずでしょ」

「まあまあ。もう終わったことだよ。それに、連中としてもここまでの反応を予測していたとは思えない。服用では、せいぜい強い興奮剤ぐらいの効能のはずだ。薬の品質が安定していないか、俺の体質と合わなかったのか、多分両方だろうな」

「――思ったが、」

「そうだな」

 想像以上に、脆い組織だとしか思えなかった。接触しながら、二人とも同じ印象を受けていた。地下宮殿の男たちの、意味もない儀式的な行為に酔っぱらっている様子をみても、こちらが工作するまでもなく放っておけば瓦解するのではないだろうか。

 しかし、対処が必要な脅威と認識されるほどに、例の薬物が市場を作り、流通しているのも確かなのだ。実際に構成員から受けた印象と、そうして冷静に商い品として扱い流通を確立させている情報に、ひどくギャップを感じる。

 イリヤを見上げると、固い表情で窓のほうに目をやっていた。イスタンブールで共に動きながら、ほんのわずかに軟化していたように見えた態度は、また出会ったばかりの頃のところまで戻ってしまったようだ。

「――一応、共有しておく」

 イリヤは重たく、どこか頼りなく口を開いた。

「お前と会った三人の中に、――KGBの者がいた。上司に確認も取れている。ボリス・エキモフ。長く対トルコとの『外交』に従事していた同志だ」

「……なるほど?」

 ほとんど顔を上げなかった、金髪の男を思い出す。去り際に紙片を握らせてきたときは状態が状態だったので記憶が不確かだが、確かに北の訛りがあったように思える。

「俺に言って差し支えないんだな」

「……ああ。同志エキモフは、トルコの政変以降足が攫めなくなっていた。クーデターに巻き込まれて死んだとも考えられていたが、生きていて、まして現在も反政府組織の構成員として動いているなどということは、第一総局の指示にはないそうだ」

 そして、UNCLEとして当たるこの任務は、ウェーバリーの言葉を借りるならば、国元も了解済みなのだ。

「それでも奴がKGBに所属していた人間であることに変わりはない。つまり、彼への対処は俺がする」

 イリヤはゆっくりと噛みしめるように言った。

「一応、共有しておく。それだけだ」

 アジアサイド、観光客の立ち寄らない、荒んだ一角のナルギレ――水煙草屋に、イリヤは無言で入っていく。その、どことなく常にない緊張感を漂わせる背中が戸口をくぐるのを、ソロは何とはなしに見つめ、後に続いた。

 店の中には、店主だろうか、痩せた男がひとり店番をしている。ガラスのくすんだパイプを髭にこすりつけるように吸う瞳は濁っていた。無言で店に入ってきた、どう見ても銃を携帯している男ふたりにさえ、さしたる興味を抱いた様子はなかった。甘く、肺に重い煙をわけて、店の奥へ進んだイリヤが不意に立ち止まる。タペストリーにまぎれるように、地下室への入り口があった。懐から銃把を握った手を、抜く。

 扉の錠を、合い鍵を手にしているのと変わらない滑らかさで開けてみせたソロの手つきにも何も言わず、わずかに階段をきしませてイリヤは階下に降りてゆく。ソロは、内心ため息をついた。この後のことは、決められた筋書きに従って進んでいくようなものだ。忌むべき退屈な予定調和だ。ソヴィエト人のように、与えられた役向きを真摯に演じるような感性は持ち合わせていなかった。この数日、不調も完全に回復しないまま駆けずり回らされた疲労が、憂鬱に拍車をかける。

 ――対処は俺がする。

 彼は、まさしくそういった通りにするのだろう。ソロは、自分がここにいる必要を感じなかった。ためらいなく立ち去ることもできた。仮にそうしても、事実として何の問題も生じない。

 しかし、ソロはイリヤに続いて、地下に降りてゆく。仕事だからな、などと自分で自分を笑うしかない理由を、申し訳程度に付け加えながら。

 階段の終わった先、雑然とした地下室では、椅子に崩れ落ちるように座った男が待っていた。

 ――ボリス・エキモフ。

 筋書きを、几帳面に演じるひとりだ。

 缶詰の散らかった机の上に銃が投げ出されていたが、イリヤの手に握られた銃を見ても、エキモフはそれに手を伸ばす様子はなかった。無精髭の伸び尽くした、荒んだ目をしていた。

「……あんたのことは知っているよ、クリヤキン」

 しゃがれていたが、思ったよりも若い声だ。端正な英語だった。

「一応、俺も地下宮殿で知りあってるはずなんだが、つれないね」

 ソロを見て男は僅かに驚いたような、納得したような表情を見せる。

「君が俺にくれた紙切れから、指導者とやらの所在、それから薬品製造の拠点を割り出すのはそれほど時間もかからなかった」

「あの連中は見境がない」

 エキモフは苦々し気に言った。

「『大義』を行いたいなら協力者の選別は慎重にするべきと言っても、聞く耳を持たない。それどころか、行動に必要な人員ごと、自分たちもヤク漬けになりかけやがる」

「弾圧された旧政権の残党を組織して反乱を起こし、恩を売って復権が成った暁には改めて親ソヴィエト外交を行わせるという目論見は理解できる。が、如何せん組んだ先がそれほどの器じゃあなかったな」

「――そんな脆弱な組織が、単独で薬物の開発、ひいては市場の開拓までもやってのけるはずがない」

 イリヤは銃口を向けたまま、重い口調で問う。

「薬を作っていた拠点は、ほとんど工場の様相だった。潤沢な資金がなければできないことだ。ナチの科学者は既に口を封じられていた。そもそも、彼をどうやって見つけ出し、どのように抱きこんで薬を開発させたのか」

「それが祖国の知りたいことか」

 疲れ切った口調で、男は天井を見上げた。

「連絡がないということは指導者もすでに抑えられているんだろう。『奴ら』がコンタクトを取ってきたのは、彼らにだ。そちらに聞くことだな」

「なぜ貴方が」

 イリヤはたまりかねたように、縋るように、しかし銃口はぴたりと動かさないままで言った。

「貴方は優秀なKGBのエージェントだった。なぜ祖国を捨ててこのような組織に協力したんだ」

「俺が祖国を捨てたのではない。祖国が俺を捨てたんだ!」

 ソヴィエトの男は、無気力だった顔を豹変させた。落ち窪んだ眼窩の中で、淡い色の瞳が爛々と粘り気をふくんで輝く。

「俺は――わたしは祖国のために働いた。何年もかけて、西側と強く結びついたこの国の上層部にソヴィエトとの繋がりを考えさせた。反発は当然予想されていたはずだ。むしろ反発が起こったそのときが、祖国がついに直接的に乗り出す好機だったはずだ。だが祖国はみてみぬふりをした。わたしの長年の献身を無に返した。わたしを切り捨てた。――失敗したのだと」

 口からあぶくを吐いてエキモフは椅子から立ち上がり、髪を掻きむしった。

「KGBが失敗した人間をどう扱うか、わたしは誰よりもよく知っている。どうしてだ。なにがいけなかった。わたしはどうすればよかったんだ」

 教えてくれ、同志。

 エキモフはイリヤに掴みかかりかねない顔をしていた。イリヤの構えた銃すら目に入らない様子だった。

「わたしなら――わたしだけならば、」

 ソロは確信に近い予感をもった。そして、その予感が外れているようにと、めったにないことを思った。

「――だが妻と子どもはどうなる」

(ああ、)

 悪趣味な脚本だ。そしてイリヤは、演じることをやめない。

「国家は、忠誠を誓うものを保護する」

 それはほとんど祈りのようだった。そして信仰を捨てたものにとって、それは嘲りの対象になった。エキモフは唇の端を引き攣れたように歪める。

「父親に似て愚かだ、クリヤキン、国家が売女の面倒をみると君は本気で信じているんだな」

 イリヤは何も返さなかった。

「わたしは帰れない。失敗したままでは帰れなかった。どんな連中を使おうとも、この国に親ソ政権を打ち立てれば、道は開ける。――だがもう終わりだ。終わりだな」

 言うなり机の銃をつかみよせようと動いた男の背中が、二発の銃声と共に弾けた。後ろから左胸を撃たれ、即死したボリス・エキモフの体が、汚れた床に崩れた。

 ソロは骸に歩み寄ると首筋に指を押し当てて死亡を確認する。机の上の銃を手に取ると、軽かった。

 弾は、こめられていなかった。

「俺を、馬鹿だと思っているんだろう」

 喉が凍り付いたような声が聞こえた。静かな瞳を燃やして、右手に硝煙を上げる銃をぶらさげたまま、イリヤは笑った。

「国に家族を奪われて、国に利用されて、それでも国に尽くし続ける。俺はそういう人間だ。おまえからしたら、心底馬鹿らしいことなんだろう」

 血を吐くように。

「俺も、所詮、エキモフと同じだ。『同志』と呼ばれる、ただそのためにどんなことでもやって、あらゆることに手を汚して、そしていつか、一方的に、理由も知らされずに、背後から『裁かれる』ことになるんだろう」

(妻と子どもはどうなる)

「――それでも、俺はそうする道を選んだんだ」

 この男は、なぜ。こんなにも、途方もなく傷つけられ傷つきながら、ずっと昔の、まだほんの幼かったことの決断にすら、「選ばされた」という言葉を使わないのだろう。ソロは理由もなく、きっと逃避ではないのだと思った。選ばされた道なのだと自分を騙して楽になれるほどこいつが器用ならば、これほど苦しまずには済んだのだ、きっと。それはほんとうに、為された選択だったのだろう。差し出されたただ一つの道を、その日、ほんとうに、イリヤは選んだのだ。そうして、選んだその日のまま、体だけ大きくして、殺しの技術ばかり学んで、傷も後悔も何もかも癒えないまま、歩いてきたのだろう。それでも自分は自分の手で道を選んだのだと、ただその事実ひとつを修羅の支えとしながら。

 そんな男に、今このとき正しく差し出せる言葉など、ソロはひとつも持ってはいない。ソロの口にできるどんな言葉も、イリヤにとっては何の意味もない。骸になった男を蔑み、イリヤの傷から流れる膿を清めてやれる力など、ソロの言葉にはない。

 なぜなら、ソロの言葉もその膿の中に含まれているから。西独の湿った朝に、楽しんでイリヤの傷をいたぶった言葉も。そして、なによりも、口先の救いなど、この男は求めてはいなかったから。

 それでも。それでも、どうしたら信じるだろう――終わりのない贖罪の冬の中を、ただ父親の時計を握りしめて歩いてゆくこいつに、どうやったら信じてもらえるのだろう。

 お前という、激しく、鋭く、まっすぐな命が失われるのを、いつの日かとうとう立ち上がれないまで傷を負うのを、俺はどうしても見過ごすことができないのだと。何にも執着せずに生きてきた俺が、たったひとりどうしても死なせたくない。それに見合う理由も関係もなく、ただお前を死なせたくないと思うのだと。

 ソロはとうとうイリヤに歩み寄り、その硝煙のにおいのする肩を抱いた。動揺にぐっと力のこもって固くなる、強靭でもろい体と、お互いの鼓動のふるえまで感じられるほどに近づいた。

 これを何と呼ぶのだろうかと、ソロは心の片隅で考えた。抱擁。慰撫。あるいは別の何か。しかしその行為に名付けられた名前は、言葉はなかった。おそらくは、その瞬間の、そのふたりの間にだけ、存在していた。

「お前は、死なすには惜しい男だ」

 我ながら馬鹿みたいな言葉だった。何の意味もない、何の救いにもならない、どんな未来にもつながらない言葉。

 しかしそれは真実だった。掛け値なしの。ソロにとっての。

 ソロは、死んだように立ち尽くす男の肩に、己が噛み破った皮膚の上に、静かにくちびるを押し当てた。抱擁を強めるように、慰撫するように、あるいは別の何かのように。

 ただ、行く当てのない祈りのように。







 もうじき発車する列車のまわりは、荷物を積み込む人、抱き合って別れを惜しむ人々で賑わっている。

 ソロはいつも通りの、体にぴったりしたオーダースーツに身を包んでいた。学生風のラフな服装も悪くはなかったが、やはりこちらのほうがしっくりとくる。物凄く自分らしくもない、ちょっと記憶から抹消したい行為をペリル相手にやってしまったのも、自分らしくない服を着ていたからに決まっているので、ソロは久しぶりのしっくりとした感覚を楽しんだ。

 横ですっかり気にいったらしいサバサンドをもぐついているギャビーは、イタリアで買った朝焼けの色のワンピースを着て、髪の毛を下ろしていた。いっしょに選んだものだ。気にいってくれたなら嬉しいな、と思った目に、彼女が肩に掛けた麻のストールを留めている、見覚えのある蜻蛉に気がついた。

「……ギャビー」

「何よ」

「あんまり可愛いと兄は心配だぞ」

 だから何なのよ、と要領を得ないまま、彼女は楽しそうに笑った。

「これ、また食べたいなあ」

「再現してみようか」

「昨日食べた、蜂蜜のかかったパンもおいしかった。あれもまた作って」

 一切遠慮というもののないギャビーのリクエストにはいはいと苦笑する。パンというのはずい分雑な言い方で、ソロが作ったのは小麦の麺を固めて焼いたカダイフというトルコの菓子だった。バザールで買い求めた蜂蜜をたっぷりかけて出してやると、ギャビーは喜んでたくさん食べた。またしてもギャビーに引きずられて同席したイリヤも、相変わらず何も言わないがパリパリと無言でたいらげ、ソロもなんとなく無言のままふたつめを盛ってやるとそれもパリパリと食べた。イリヤにせよギャビーにせよ、同僚に料理を気にいられたというよりは、野生動物の餌付けに成功してしまった感がある。

「オフでまた来たいな。わたし、今回大した仕事もしなかったのに、結局アヤソフィアも見られなかったんだから」

「君のせいじゃなくて、奴らの信条の問題だったろ」

「そうだけど」

「俺はしばらくはごめんだな」

「それ、毒を盛られたから? それとも猫が多いから?」

「あのね」

 ギャビーは笑いを噛み殺そうとしてどう見ても失敗している。

 猫の街と言われるほど、イスタンブールには猫が多い。野良は野良でも、モスクまでが餌をやったり寝場所をつくったりしているおかげで、人慣れした猫がそこかしこでくつろいでいる。昨日もアパートの開け放たれた窓から、するりと白猫が侵入してきて、まるで自分の家に帰ってきたかのようにくつろぎだしたのだ。夕食後ごろごろしていたギャビーの膝になついて喉を鳴らすやわらかい獣は、可愛い可愛いと喜ぶギャビーの指に頭をすりよせた。ソロはというと、ソファから立ち上がり、静かに部屋の最も遠くまで、距離を取った。不自然な行動を見とがめたギャビーによって、結局、猫がとても苦手である旨を告白させられた。ツボに入ったらしくヒイヒイと笑う女性の前で憮然とするソロなどおかまいなしに、白猫は次の標的をイリヤに定め、身軽に膝に飛び乗っていた。大きな手がおそるおそる、ふわふわの毛並みを梳かした。赤の脅威は、まあまあ猫が好きらしかった。

 一夜明けてもまだからかってくるギャビーの頬を一度つついておく。別にいいだろ猫が嫌いでも。苦手なものは苦手なんだよ。

「イリヤ、遅いね」

 つつかれた頬をもみながら、ギャビーがぽつりと言った。今回の件は顛末が顛末だったので、ソ連側はぎりぎりまでイリヤから情報を得たがった。どこでどの連絡員と会っているのか、ソロは把握していない。

「あいつの上司連中は過保護なのさ」

 それでも、ウェーバリー曰く、このUNCLEという特例はやはり存続するのだ。拘束した指導者は、ある組織の名前を吐いた。THRUSH。今はまだその名前だけだ。反政府勢力に資金を援助し、資金源となる薬物の開発を可能にした謎の組織。名前の通り、ツグミをシンボルにしていることの他は何もかも不明だ。最も、ウェーバリーはもっと何か掴んでいるような気もするのだが。しかし探りを入れるだけ意味のないことである。

(休む暇もなくって申し訳ないんだけど、移動しておいてくれ)

 声だけは機嫌よく、電話越しに『長官』は云う。

(私はイスタンブールで事後処理してから合流するから)

 そもそも一体いまどこにいるのか、そもそも最初からイスタンブールにいて、ソロたちの仕事を観察していてもおかしくない。ギャビーが電話越しに、決して水煙草をやらないようにと厳命しているのが面白かった。ソロのいうことでもないが、上司と部下よりもウェーバリーとギャビーは近しく見える。

 自分たちは、自分と、ギャビー、そしてイリヤ・クリヤキンは、どう見えるのだろう。三角関係の男女、仕事仲間、家族、友人、あるいは敵同士、そのどれにも当てはまるような、そしてそのどれにも当てはまらないような、不思議な感覚がある。ソロはまだそれに名前をつけていない。ただ、自分の人生において、これまでこういうことがなかったように、これからもまた、こういう出会いは決してないのだという気がしていた。だからきっと、名前をつけなくてもいいのだろう。

 とにかく、まだ続くのだから。世界は途方もなく混沌としていて、問題は山積みで、UNCLEという組織は必要とされているらしいので。それが良いことか悪いことかはともかく。

 汽笛が高く鳴った。

「うわっ、イリヤまだ来ない」

 ソロの手を借りて車両に乗り込んでも、まだ姿を現さない男を人ごみに探して、ギャビーが入り口から身を乗り出す。

「迷子かな」

「もう! 発車しちゃう」

 連結部分が軋みをあげて、車輪が線路を噛み、ゆっくりと列車は動きだす。雑踏の向こうに、背の高い影がやっと現れた。

「イリヤ!」

 ギャビーが手を振って呼ぶ。列車が徐々に加速しはじめる。長い脚がホームを蹴って走り出す。

 まぶしいほどに明るく日の差すイスタンブールに、ソロは東ベルリンの夜を重ねた。車を追って走ってきた、KGBのエージェント。馬鹿げた身体能力と、同じくらい馬鹿げたまっすぐさで、目を燃やして車につかみかかってきた。あの日ソロが撃てなかった男が、あの日と同じように、思い切り走って列車に追いつこうとしている。何度あの時に戻ったとしても、やはりイリヤを撃てないのだろうと思う。こんなに気が合わないのに、重たい過去を丸ごと背負って、ソロには理解できない人生を歩んでいるやつなのに。

 こんなやつに関わるのは面倒くさすぎると思いながら、今この瞬間、ソロは車両の手すりを掴んで身を乗り出して、走るイリヤに手を差し出してしまっているのだから。

「俺の手をもぎ取って投げるなよ、ペリル」

 イリヤの口が、うるさい、と動く。

「全く可愛くないやつだ!」

「そんなこと言ってる場合っ」

 ギャビーが悲鳴みたいな声をあげてソロの尻をばしばしと叩いてくる。痛い。落ちたらどうするんだ。

「――悪いが、俺は置いてく気はないぞ」

 なぜ手を伸ばさないんだ。イリヤも、ギャビーも。ソロの知る誰より強くまっすぐな彼らが全力で手を伸ばせば、どんなものにだって届くというのに。ソロはそう思う。それなのに、手を伸ばしても届かなかった過去に、いつまでも捕らわれているなんて。

(俺に、付き合う義務はない)

 けれどソロは思い切り手を伸ばす。無理矢理イリヤの手をつかみ、全身を使って車両へ引き上げる。勢い余って、ギャビーを巻き込んで壁に突っ込み、つぶされた彼女とイリヤの肩が腹に食い込んだソロの、それぞれ鈍いうめき声があがった。

「――助けなんかいらん」

 わずかに息を乱したイリヤが、言い捨てた。

「はいはい。俺は許可なんか取らないからな」

 そう、許可を取る気はない。伸ばしたいと思った手を、ソロは勝手に伸ばすのだ。そして繰り返し、この手をつかんで引き上げる。何度でも。

 ――理由などいらない。欲しいものは欲しい。いつでも、なにもかも、手が伸ばせるだけ欲していなけりゃ、

 世界を手にする、強欲の見本たれ。ナポレオン・ソロは、イリヤ・クリヤキンの手を掴んだまま笑った。

 ――俺の世界には足りないのさ。



(初出 2017.7 MP)


Photo by George Kourounis on Unsplash



0コメント

  • 1000 / 1000